小坂 茂氏 に聞く 〔聞き手〕小坂夫人、大石洋次郎、金谷ちぐさ
1925(昭和元)年東京都に生れる。1966(昭和41)年第43回展で会員に推挙。1972(昭和47)年第21回小学館絵画賞を受賞。1975(昭和50)年から15年間『こどもの本』(日本児童図書出版協会)の表紙絵を制作。2006(平成18)年第83回春陽展で中川一政賞を受賞。2014(平成26)年インド古代叙事詩『マハーバーラト』(4巻)、『ワルミキラーマヤン』(2巻)の装幀画担当。2023年(令和5年)逝去。享年97。児童図書、出版作品多数
2015年5月21日 14時〜15時30分 於・新宿柿傳
柿傳八階には中川一政の書が掛けられている。
金谷 この書の意味は何ですか?
小坂 「僧、月下に門を敲(たた)く」。文字で言うと簡単だが何か深い意味があると思う。僧は自由自在、その僧が門を敲く、受ける側もある。ここ(柿傳)は何年前くらいからかな?
夫人 30年前くらいでしょうか。
小坂 耳が少し聞こえないので、すみませんけど(補聴器を操作)腰は良くなったけど年だから。夕べ資料を書きました。30歳くらいで初出品しました。若いころは結核との戦いでした。5年以上。こんなに長生きできるとは思いませんでした。それまでも絵は好きだったけど。
夫人 小学校の時の同級生の話で小坂さんは1年生の時から絵が上手かった≠ニ。入学してチューリップを描かされたが小坂さんの絵はちゃんとチューリップだったと。
小坂 療養生活が長い。3回繰り返しました。
■阿佐ヶ谷美術学校から春陽会研究会へ
小坂 好きな道は何だ? ≠ニ親に聞かれて。
大石 歯医者の御長男で結核にかかって、23歳で阿佐ヶ谷に入ったのですね。
小坂 上手い人ばかりいた。
大石 三井さんはそれを見て認めた。それで春陽会研究所へ行った。
夫人 あなたも石膏デッサンやったのね。
小坂 やったよ。
そして親戚の詩人のアドバイスで出版の仕事に。出版と阿佐ヶ谷が結び付いて、出来そうな気がしたのです。阿佐ヶ谷には石井茂雄(1633‐62)という絵描きがいて、ぜんそくで早死にしたのだが、皆と違う絵を描いていました。三井永一が木村荘八のつながりで出版関係をやっていることは知っていました。若いころ5年以上結核との戦いで、春陽会には34歳で初出品しました。
金谷 春陽会研究所には行ったのですね?
小坂 春陽展に出し始めてから春陽会研究所に行きましたが、三雲祥之助先生なんかにかちっとやられて春陽会のバックボーンが身につきました。木村荘八先生なんかも来て、話が面白かった。複雑な生い立ちをしているから絵にこだわらなくて。
石井先生の本を読んで下絵に触れました。それを保存してあります。石井鶴三先生は普通と違って、竹橋で、エスカレーターで前にいた石井先生がちょっとよろっとされた。前を向いているのに、後ろにいた私に「大丈夫だ」と言うんだ。気配を感じるのか、常人ではわからない不思議な感覚を持っていて、あったかい先生。絵は真剣勝負。禅問答みたいでした。僕は若いころこれが分からなかった。
三雲祥之助先生は、電話下さって、「画廊世話するよ。やるか?」。いい話を2つ持って来てくれた。先生の好意はうれしかった。
大石 私は大学の時三雲先生が担任で、厳しかったけどかわいがってもらいました。今関鷲人先生もそう言っていました。三雲さんを好きな人がいっぱいいました。
■表現者として
小坂 妻は編集者です。
夫人 フレーベル社の『キンダーブック』〔註1〕の編集をやっていました。
小坂 (挿絵は)嫌だったのだけど(夫人の)感じがいいから描いてやろうかと。
夫人 『キンダーブック』にはランクがあって、主人は若いのでEランク。表紙に描く先生はAでした。
大石 それを生業にされていた。
小坂 そうなんだ、それが修業だったんだ。
大石 奥さんは絵を生業にすることをわかっていましたか?
夫人 結婚してすぐ、長女が生まれた年から春陽会に出品。
小坂 正月ころから春陽会の絵を描かなければならないから顔が厳しくなっちゃって、嫌なお父さんだよな。
夫人 十坪ほどの狭い家で、描く場所も欲しい、子供を寝かせる場所も欲しい、もう狭いところで、でも頑張りましたね。私の父が春陽会に入選したことを大喜びしました。父は中川一政先生の書物も愛読していましたし。
『キンダーブック』の表紙はしっかり油絵が描ける人が担当していました。
夫人 編集長が、幼児向けとしても飴玉みたいのはダメ≠ニ、野間仁根、宮本三郎、脇田和に依頼しました。あと耳野卯三郎先生。(いずれも洋画家)
金谷 挿絵カットというより画家の絵ですね。
小坂 これは去年出版した本(インドの古代叙事詩『ワルキミラーマヤン』)。インドの神話。こういう珍しい本もあるわけ。2年くらいかかって挿絵を描きました。
金谷 これは学術書ですね。
小坂 講談社の本、これを描くためにこの長文を2、3度読まなければならない。88歳の爺がやるんだよ。若いころからガッシュが好きでね。
大石 いいな〜。挿絵カットというより画家の絵ですね。
小坂 文と絵との関係がつかず離れずという、そこがね、そのへんの研究がやっかい。
夫人 インド哲学とか神話を研究している方々の読み物なのでしょう、一般の人ではなかなか。
小坂 読みこなしてどこを絵にするか、そこに時間が掛る。
夫人 出版社に最終的に1枚渡すまでに5、6枚、10枚近く描きます。
小坂 締め切りを延ばしてもらうこともある。服装の研究もしなければならない。資料や写真。古いものを探します。編集者は累系図など作ってくれて助けてくれましたが、これを描いた後インドに長くいた人に見せたらよく研究していると言われホッとしました。
ものを描くと言うのは説明ではなく人間が出る。何10年かかるんだろうね。石井先生がいつも言っていた。ほんときついもんだ。表現者になるように僕自身も考えねばと思っています。ミューズが見て微笑んでくれるような何かが。ミューズが嫌な顔をするようならダメなんだよ。
妻の父親は絵本作家で、小川未明〔註2〕が先生でした。そんなことから、小川未明の「野バラ」、反戦的な童話などの挿絵を子供のために油絵で描きました。自分には役目があります。ずっと絵と並行して出版の仕事をしてきました。三浦綾子〔註3〕 、近藤啓太郎 〔註3〕の本などをやりました。
■赤い絵から青い絵へ
小坂 若いころの話だが、怒りを描いていて若者らしく赤をぶつけていたら、確か加山四郎先生が、「お前元気が良くて、赤が大部分だ、いいだろう、ただし赤の部分にこそ問題があると思う。」ただそれだけを言ってくれました。それを自分なりに受けとめるまで何年もかかってしまいました。でもそういうやり方イイね。赤にこそ問題がある。いちばんの所を否定されてしまう。だからそれから青を研究したね。逆をやると赤のオクターブがでる。若い人に絵を見てくれと言われることがあるが、部分の色だけではないよと言いたい。そのへんが難しいところだと先輩は思うわけ。加山さんの言うように自信のあるところに問題があると言われたら今の若者困るだろうね。加山先生はよく怒鳴っていて怖かったけどズバッといいことを言う暖かい方だったよ。近所だから遊びに来ないかと言われたが怖かったので行けなかったよ。
大石 加山先生は入江観さんの先生です。小林裕兒さんの先生が中谷泰さん。
小坂 若い時構図で一番ショックを受けたのは、ルイジアナ美術館で、ジャコメッティの像の向こうに北国の海が見えた時だね。バルト海か。僕は構図に苦労していたから、青の空間の中にジャコメッティの像があり、そこで立ちすくんだ。ジャコメッティががっちりしているんだよ。食い込んでいるような気がしました。50年、60年たっても時々思う。青の絵になる時期でした。絵具ではない青を考えた。おれは迷いに迷ったよ。
「時」と言う題を使う。そうして90歳だよ。若い時、失った1年ぐらいがある。(結核の時期?)数年前名古屋にいる尼僧さんと一緒に本を作ったことがある。個展にその尼僧さんが訪ねて来て、小坂さん今何時?≠ニいうので時計を見たら、そうではなく貴方自身の時間。24時間にすると今は何時?≠サのころから、時という題名を移し替えた自分を大事にする。探している。「時」と言うテーマをどう扱いたいか。これからまだやる、「時」ってなんだ?=Bしょっちゅう出てくる。食事しながらでも。
金谷 水墨も描かれた。水墨の薬師如来像。
夫人 小坂の山梨の菩提寺、貧乏寺の住職≠フ希望で描きました。
小坂 延長の大きな絵を描いている。釈迦の苦しみのドラマのうちの一つをどうしても仕上げたい、何年もやっているが仕上がらない。困っている。
大石 楽しんでいるのかもしれませんね。
■春陽会の人々
小坂 (春陽会に入ったきっかけは)変わった出発点であったけどよかったよ。横山了平君の時から役目があったり。小柳正先生は山梨に行ってしまいましたが、財布を持ってくっついて歩きました。面白かったけどきつかったよ。矢野素直君もいたりして。地味な沖縄飲み屋で。会員になった時沖縄出身は六名いました。保坂良平は他へ行って他は亡くなってしまった。
大石 自分が入った頃個性豊かなひとがいっぱいいました。ちょっと前が東直樹さん。その頃は美大を出ている人が少なかったが今は美大出身が多い。
小坂 東さんが会員になった頃名古屋に講師で行ったことがある。僕は東京から行って、一生懸命かばった。若者が覚えていたよ。「かわった絵も、どういう方向に行くか見ていてあげましょうよ」と言って。上原先生は写実画壇のカッチリした絵であったが、名古屋はその頃から変わり始めていて、中間の時に若者たちに会った。
夫人 平井誠一さんとか。
小坂 出岡実さんはもう名古屋にいなかった。
大石 出岡さんの弟子が田村勉さんと東さんです。
小坂 出岡さんはうまかったよ。影響を与えたよな。お人柄も楽しい人だった。
大石 自分たちはもっと時間が有れば皆でいろいろ話をするのだが、絵を考える(しゃべる)。時間がないし、すれちがいが寂しい。
夫人 お陰様で主人は健康でして、互助会のお世話にもならず。でも六十代の頃奇妙な病気をして結局結核だったのですが、手術せずに治しました。外出許可が出たら家に戻り春陽会の出品画を仕上げていました。松下忠さん(春陽会会員)が見舞いに来たら本人が病院にいなかった。それだけですね。
大石 昔、山崎貴夫さん(春陽会会員)が釣れた魚を岡鹿之助先生の所に持って行っていき、それを岡先生は絵に描いていました。山崎さん、五味秀夫さん(春陽会会員)と自分と三人で海釣りに行きました。釣りしながら、酒飲みながら、絵の話をしたものです。昔は遠足がありましたが、人数が集まらなくなったので新年会になりました。遠足は面白かった。秋元恒さん(春陽会会員)の地元でナマズ料理を食べました。武田百合子さん(春陽会会員)は娘の紅子さんを連れて来て弁当を食べさせていました。小林裕兒さん(春陽会会員)の先生が中谷泰(春陽会会員)さん。
金谷 中谷泰先生の思い出は?
小坂 共産党系だったね、あまり深くは付き合いがなかったけど、ぼそぼそっといいこと言ってくれたことがある、先輩は偉いよ。
夫人 個展にいらして下さった。中谷先生も。
小坂 東急の個展の時、岡先生の言い伝えで南大路一さんが来てくれました。順応性のある幅のある人だった。たっぷりした方で、会社の重役みたいな。沓掛利通さんは激しくて。田舎の旅館のおやじでね。今、ああいう人が欲しいね。浦野吉人さん(春陽会会員)、池田輝さん(春陽会会員)育てました。春陽会は鋭い人がいるよ、今に伝えてほしいね。
大石 沓掛さん、小柳さん、和田衛明さんとか皆知らないからね。
■春陽会の後輩へ
小坂 僕はあまり春陽会に貢献していないから、申し訳ないけれど、後輩をまとめることもやったし、「叢の会 」〔註4〕で、力はないけど、何らかの手渡しをしてきました。
若い研究生には気になることもある。いろいろな先生の批評で混乱するのか、研究会で絵にパターンが出来てくる。ある時若者が先生ここの色はどうしたらよいか? ここは?≠ニ訊ねたけれど、「それは止めとけ」、「君、僕と一緒に自分の絵の前に30秒立っていろ、後で何か言ってもらうから。自分で気がつくことが一番大事だと思うよ」と言いました。
大石 今の若者は分かりやすいことを絵に求めるのでは。禅問答にはキョトンとしている。
小坂 先生の言ったことを錯覚してしまう。(この線がいいと言ったらそのまま残していた。)
大石 会員がどこまでレベルを上げていくかが大事なこと。今日は奥さんが来てくれて楽しかった。
夫人 フレーベルの編集長が春陽会は五本の指に入ると言っていました。結婚したら春陽会に出す人だった。今は老老介護で、先日のぎっくり腰は大変でした。
大石 何かお伝えしたいことは?
小坂 事務をやっている方々への感謝だよ。
大石 ベストセレクションで春陽会は若々しかった。
小坂 春陽会は古いも若いもみな同等、そういう精神があった。
大石 一番影響を受けた先生は?
小坂 三雲祥之助先生だな。研究会で研究生がいろいろ言うと、「ほう、ほう、言うじゃないか、来月描いておいで」。それでペシャッとなる。ズバッと真髄を捕まえていたね。今度私が講師をやる時があったら、若い人にそう言おう。「ほう、いいこと言うね。来月描いておいで」とね。
〔編集〕木村梨枝子、金谷ちぐさ

第96回展出品作品
◆註
01|キンダーブック
1927年創刊の保育絵本。フレーベル社刊行。
02|小川未明
1882年-1961年小説家・児童文学作家。「野ばら」は反戦的テーマの心優しい物語。
03|三浦綾子
1922年-1999年日本の女性作家。キリスト教的、社会派的観点からの作品を多く発表した。
04|近藤啓太郎
1920年-2002年日本の作家。東京美術学校日本画科卒業。その後「海人舟」で芥川賞受賞。遠藤周作らと共に第三の新人の一人と評された。
05|叢の会
春陽会の有志による展覧会、松下忠、相吉沢久らが創設し、その後多くの会員によ
り引き継がれている。