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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ
春陽会史料館
TEL. 03-6380-9145
〒102-0085 東京都千代田区六番町1番町一番館
アーカイブ インタビュー
INTERVIEW
松下 忠氏 に聞く
〔聞き手〕大石洋次郎、矢野素直、金谷ちぐさ
中央 松下忠先生とお嬢さん。先生の左 大石洋次郎、後ろ 矢野素直。撮影・金谷ちぐさ
1922(大正11)年東京都武蔵野市吉祥寺に生れる。1951(昭和26)年第28回春陽展に初入選。1958(昭和33)年第35回春陽展で35回記念春陽会賞を受賞。1974(昭和49)年春陽会絵画部会員に推挙。1922(平成4)年「松下忠展 木馬シリーズ」(山梨県立美術館B室)を開催する。2017(平成29)年逝去。享年94。
2013年11月34日 於・文京グリーンコート内 そば処そじ坊
■春陽会法人化の頃
金谷
1974年(第51回春陽展)に会員になられた?
松下
そうそう。準会員が長いんですよ
金谷
昔は厳しかった?
松下
大石さんと同期位だね。会員になってからは事務所(昭和56年〜58年)もやりました。鎌倉の越智雄二さん(事務所:昭和50年〜52年春陽会会員)に、会計をやってくれと言われ、第58回展だったか事務所をやらされて。その時はちょうど会の法人化〔註01〕の時で、在野を持ってスタートした会だったから反対も多かったんですよね。それを入江観さん(春陽会会員)が直接タッチしてくれて。
昭和59年(10月29日)に法人化が認可になりました。(社団法人春陽会を登記)。その間いろいろ役所とのやりとりがあり、法人化ということで決まっていきました。最後は出岡事務所で。
(私が)初代事務所で理事長ということだったが、出岡さん(出岡実 春陽会会員)に一切譲ったつもりが出岡さんは面倒なことがいやな人で、ダメだと。「私(出岡)が事務所のことは一切やるからあなたは事務関係が定まるまでいてくれ」と言われました。
すったもんだしたけど。それで相吉沢久。彼は一番の友達でしたが、健康保険の事務をやっていたので詳しい。懐かしい。
大石
先生のお宅が事務所で、そして四谷の春陽会事務所(新宿区須賀町)が出来た。そんな時期ですね。
矢野
法人化認可で、それで事務所が出来ました。
松下
四谷の事務所は友人の紹介で、皆さんに見てもらって決めました。あの時は?・・・
金谷
昭和57年(10月26日)ですね。
松下
その時、皆さんがそういう方面を勉強しましたが、細かいところまでは知らないので何回も文化庁に行って説明を受けたが良く分かりませんでした。しまいには表敬訪問してくれと言われて、局の人に頭を下げたこともありました。
相吉沢久(春陽会会員 越智事務所書記)は生涯独身だったけど僕とは意気投合してね、法人化になっても彼は事務的才能がありましたから。
矢野
都庁の役人だったのですよね
松下
書記の彼が事務所に顔を出してまとめました。会員が事務をやっていいのかと言われ。
大石
皆絵描きだったから事務は嫌で嫌でたまらなかったと思いますよ。
金谷
会員の数は増えていたのでは?
松下
たくさんいたね。
矢野
170〜180人いたのでは。版画も含めて。
大石
法人化で苦労され、今は新美術館になって・・美術会も様変わりしましたか?
松下
なんでもそうでしょうけど、昔はよかったな、ほんとね。
金谷
90回展を前に事務所は番町に移転しました。今は事務員が2人います。四谷事務所が出来た時、事務員はいましたか?
松下
事務員は相吉沢さん。
大石
水津さんがやったことがある。準会員の時に手伝いをしていた。
松下
事務所の物件は原精一(後述)の教え子の国画・大沼洋子氏からの話で知り合いの業者に頼みました。
■仕事と画業と 春陽会へ
松下
とにかくサラリーマン時代が長いんです。
矢野
王子製紙に勤めながら。
松下
三十年勤続。当時の入社の条件として、内地勤務はない。最初は樺太に2年、次に北朝鮮。戦時中北海道江別工場が転換させられて王子航空という会社になって戦闘機の組み立てまでやりました。王子製紙の強化棒(?)木材の強度が高く、それで飛行機を作りました。終戦後初めて飛びました。ベニヤ(の飛行機)ですよ。終戦の年に企業の中に美術的な動きがあって、ブリヂストンにしても、企業が美術に関心を向けてきた時期でした。終戦の昭和20年、復員の時期が2〜3年ありましたがその時私の会社の阿部さんという人が会社の中に美術サークルを作ろうということになりました。先生はビルマに長く行っていて引き揚げた国画の会員原精一。(元春陽会会員)その当時私は美術団体は頭になかったのですが 原先生にいろいろ教わって本格的な仕事をしました。原先生は浅草ビューホテルそばの日輪寺の僧侶ですが(お経はちゃんと読める)、国展に入り会員として知られていました。展覧会に出したい、という希望があり先生に相談したら、おまえは春陽会に出せ、春陽会には三雲祥之助先生、小川マリ先生がいる、と言われ出品しました。今でも小川さんとは交流があります。三雲先生にわざわざ紹介してくれた。
矢野
王子製紙の技師をやられていましたよね。研究者が長く。絵に傾倒したのは、原先生の影響ですか?
松下
原先生にほれ込んだから。1951年、第28回春陽展に初入選して原先生から入選おめでとうの手紙をもらいました。それから、岡鹿之助先生とか、創立の時の人たちと顔を合わせた時期もありました。恩師は原先生で昭和27年の結婚の仲人もしてくれました。
それからずっと、春陽会、春陽会。その間お世話になったのは、中川一政先生。文化勲章を受章された時は越智さんと挨拶に行きました。越智事務所の時はいろいろ偉い先生に会いました。岡先生のアトリエに越智さんに連れられて行ったこともあり、近所に美味しい鰻屋があって、ごちそうになったことを覚えています。昔の春陽会はよかったね。
五味秀夫さん、宮城音蔵さん(春陽会会員)が春陽会を動かしていました。そして、入江観さん(春陽会会員)、大石洋次郎さん(春陽会会員)。入江さんは女子美とのつながりも作ってくれて、会にも貢献していて、美術家連盟の仕事などにも力を出し惜しみしない人ですよね。今でも好きですよ。
矢野
小柳秀太郎さん、志村一男先生のアトリエに顔を出してよく酒を飲みました。和田歳一さんは横綱級。
松下
僕はあまり飲まない。
矢野
ウイスキーを作って入院した話、ありましたよね。
松下
昔は配給で、お酒はあまり買えなませんでした。北海道、江別で終戦を迎えましたが、ウイスキーを、カラメルを入れたりして・・・(作り)、少し飲んで、死ぬ思いをしました。会社の診療所に入院、もう駄目だと思い東京から子供たちを呼びましだ。
相吉沢は春陽会の友達としては最高の人で、僕とは意気投合してね。散歩中に突然心筋梗塞で亡くなりました。相吉沢のような純心な人間はいないが、口は悪い。春陽会の連中を1回も褒めたことが無い。理論家でした。会うと絵以外の話はしない。
矢野
昼休みに銀座の画廊をほとんど見ていました。写生会にも必ず来て、研究会では主任、会計で先生と 一緒だったのでは。
松下
昭和41年か42年。京橋の高架下の画廊に絵が常時かけてありました。
「叢の会」を作ろうということは彼と2人で決めていました。その前に「ばくの会」があったのですが、叢の会は1982年に始め、32年目になります。隔年で行ってきましたが、資生堂ギャラリーでのオープニングの時もマリオン〔註02〕でも観客で満杯で、床が抜けるかと心配したくらいです。
これは僕の(山梨県立美術館での個展のパンフレットを見て)一番大きな私の展覧会(「松下忠展 木馬シリーズ」 1992年3月14日〜20日 山梨県立美術館B室)。
この当時は研究会が活発で山梨研究会の人がやって、吉澤先生が力を入れてくれてぜひ山梨でやりなさいと。山梨県立美術館が出来たころで、紹介をしてくれました。当時の会員の人が(東京など各方面からレセプションに)50人も来てくれて、盛会だったことを覚えています。甲府は死んだ妻の生まれたところ。
矢野
先生の年齢は春陽展の回数と同じですね。
松下
大正11年、私の生まれた年が春陽会創立の年。春陽展は戦時中1回休み(昭和20年)
矢野
大きい絵がありましたね。
松下
私の遺言、遺作展にこの200号変(120号×2枚)の回転木馬の絵を加えてほしい。
第95回春陽展(2018年) 「回転木馬」200号変が遺作展示されました。
〔編集〕木村梨枝子、金谷ちぐさ
◆註
01|春陽会法人化
春陽会は春陽会は1984年社団法人春陽会として法人となり、2010年一般社団法人として認可されました。会の運営を担当する会員の労力削減、会の資料保管整備や、税制面での優遇、寄付行為の保証など、社会的な信用を得るためであったが、一番大きな目的は、会の構成人員の増加にともない、将来に向けて明確な組織の形を必要としたことがあげられる。それまで会員の持ち回りの事務所であったものを、固定的な事務所として四谷に開設したのもそのためである。
02|
マリオン
有楽町センタービル(マリオン)内の有楽町朝日ギャラリー
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