武田百合子氏・山中眞寿子氏に聞く 〔聞き手〕大石洋次郎、金谷ちぐさ
武田百合子 1936(昭和11)年宮崎県に生まれる。1961(昭和36)年武蔵野美術学校卒業(フレスコ画を長谷川路可に師事する)。1962(昭和37)年愛知県立美術館でフレスコ画の個展を開催する。1963(昭和38)年春陽会40周年記念賞をフレスコ画のグループとして受賞する。1972(昭和47)年第49回春陽展で研究賞を受賞する。1976(昭和51)年春陽会会員に推挙される。1981(昭和56)年第58回展賞を受賞する。日本画廊協会賞展大賞を受賞する。1982〜84年イタリア、シチリアに留学。パレルモにて個展開催。
山中眞寿子 1937(昭和12)年大分県に生まれる。1989(昭和64/平成元)年第66回春陽展で春陽会賞を受賞する。1990, 91(平成2、3)年奨励賞を受賞する。1992(平成4)年春陽会会員に推挙される。文化庁現代美術選抜展出品。2009年国分寺市文化功労者。2012年春陽展中川一政賞受賞
2017年11月21日 10時30分〜12時20分 於・たましんギャラリー 休憩室
■研究会の日々
大石 武田さん、山中さんには相当前からインタビューをお願いしていましたが、「まだ早い」と言われていました。先輩方と話をする機会はなかなかなく、本気で頑張っている方々にお話を伺いたいと思っていました。
山中さんは会員推挙や入選は遅かった?
山中 私は入選は早いのですが、研究会で武田百合子先生、大石洋次郎さんにお世話になった。武田先生より年下です。
武田 山中さんは早生まれの2月、私は前の年の10月生まれだから同学年ですよ。
山中 まあそうですけど、先輩です。先輩を立てなければ。
金谷 春陽会は会員になると皆同輩としてお付き合いしてくださる会で、そこが素晴らしい。
武田 昭和58、59年、岩浪弘(春陽会会員)さんが東京研究会主任の時、武田、大石で係を2年間やりました。
大石 毎月研究会があって、お知らせハガキは全部手書きでした。展覧会出品前になると呼んでいない会員の人まで来て廊下でも研究会をやっていた。お呼びしたのは倉田三郎さん、大庭勝郎さん、遠藤典太さん達(いずれも春陽会会員)……。
武田 典太さんは酒飲みでした。研究会の後の会食は四畳半くらいの狭い部屋で、私は上がり框から足が半分出た状態でお酒を注文していました。典太さんは都美術館の講堂で「黒雲」という題名で講演会をしたことがありましたが黒雲とは自分の事。
大石 遠藤さんは飲むとなよっ≠ニなる。倉田さんが怒って、「ヨーロッパに連れて行こうと思ったけど連れてってやんない」と。興奮した2人の唾が飛んで刺身が食べられなくなったり。
金谷 その頃の研究生は20〜30歳代だったとか?
大石 30歳までに入って40歳くらいになると卒業させようということで退会させる。当時、栃木、茨城からも研究生が来ていました。藤沼多門(春陽会会員)も来ていました。
山中 私も大きい作品は画布を巻いて持って行きましたが、すごく厳しかったです。
大石 帰りなさいと言われたことがある。どうしたらよいか困りました。厳しかった。
山中 真剣でした。この間偶然、流進氏に会いました。春陽に出していたころ面白い絵を描いていました。その後二紀に出したが、当時のことをよく覚えていて、あの頃はよかったと言っていました。
大石 美大の先生しか知らなかったから、絵描きの言葉で絵の話を聞いてすごく楽しかった。五味さんが主任の時、山本睦さん、山崎貴夫さん(いずれも春陽会会員)と。自分が見習い係だった。山崎さんは会計ノートにフランス語で書いていたので日本語に直しました。
■武蔵美時代と長谷川路可、フレスコとの出会い
武田 ヨーロッパでは教会などに壁画があって、そういった公共の場で皆に作品を見てもらうのが私のあこがれでした。額に入った絵を売るのには抵抗がありました。昭和32(1957)年9月17日、朝日新聞にこういう記事が載りました。
(記事を持参) イタリアでの制作。
それを読んでフレスコ画を習いたいと思っていたところ、武蔵野美術学校に入学したら、デザイン科の先生として長谷川路可が来ました。日本でもフレスコ画の仕事をしたいので助手を探していて、フレスコを習いたい人を募集したところ、30人ほど集まり、教える場所は階段の壁面で、最後に残ったのは一緒に春陽に出品した11名でした。路可の仕事をあちこちで手伝いました。路可は第2次世界大戦後にイタリアで考え出された剥ぎ取り技術を教わって帰ってきましたのでこれ幸いと。路可は初めは洋画でしたが日本画に転向した人で、その後フレスコの技術だけイタリアで教わり、(理屈だけ教わって来て)、ブリヂストン美術館での個展(1958年)のために初めてフレスコ画を制作、出品したのですが、それを我々が手伝いました。
山中 武蔵美があったからフレスコは定着したのでは? 芸大の絹谷幸二さんもいるけどその頃には定着しました。
大石 フレスコは油絵と違い準備が大変。
武田 フレスコは描いて終わりではなく、その後の剥ぎ取りが失敗するとゼロになるというように、技術的訓練がいります。寒冷紗〔註01〕を膠で貼り付け、それを剥がし取り、平らにして薄い漆喰の表面だけにして、麻布で裏打ちして木枠に張ります。そして平らにするために重石をかけてプレスするのです。ブロックをいっぱい用意します。
頼まれた現場の仕事(天井画)では、壁作りは左官職に頼み、描くのは日にちをかけます。私は娘を助手にしています。天井画の場合自分の上しか見えないので描くのにちょうど良い高さで足場を組み、幕を張って乾かないようにします。3日分くらいを部分的に描いて。最後に輪郭線を取り接ぎします。全体像が見えないので足場を外してアレッ? とならないようにしなければなりません。
山中 大阪の作品を見せてもらいましたが、すごいです。天井画は日本ではあまり見られない。フレスコは空の色など下から見上げると美しい
大石 フレスコ作家は、今は大勢いるけれど、当時は少なかったと思います。武田先生の多摩センターでの個展を見てやってみたくなり、沼田さんに教えてもらったが大変で、3回でやめました。
武田 フレスコは剥ぎ取りが大変で、みなへたくそ。技術の習得が大変。剥ぎ取りを失敗したら元も子もない。湿気は多いほうがよいのです。
■春陽展へ
大石 武田さんは記念賞を取られたときはグループで?
武田 私が春陽に出すことになったのは、中川先生と長谷川の交友関係のおかげです。路可が中川一政にイタリアを案内した時に春陽会を知り、我々に出品をすすめたのです。
1962年が春陽展初出品で、1963年、第40回記念大賞を路可の弟子の11人のグループ(武田百合子、玉置高明、古川清右など)で受賞して、春陽展と女流画家協会展に出品。女流画家協会展はその1回しか出していないが桜井悦賞を受賞しました。
金谷 90年代も女流画家協会展に出していらっしゃったのでは?
武田 90年代の出品は、「女流画家展」といってデパート企画。色々な会の人を評論家がピックアップしていました。公募展ではありません。
大石 春陽で選ばれたのは武田先生だけ。
山中 大賞を取られた時の羽衣の絵がとても印象に残っています。天駆ける女性がいて、すごく素敵でした。
大石 自分より1級上の武蔵美の人たちもグループで春陽会にフレスコ画を出して賞を取りました。更谷さん。フレスコの授業が1級上までありました。
山中 更谷さんは国分寺の人で知っています。春陽の受賞作品は国分寺でやっていた時のものでしたね。
武田 自分たちは11人で賞金30万円を山分けしました。
武蔵美の階段の踊り場を借りて制作。教室は貸してもらえませんでした。階段と物置。階段は1階〜4階まで使えて、四年の時60年安保の大壁画を描きました。当時警察は鉄兜で警棒を持って、学生は白シャツに黒ズボン。殴られて何人も入院したり、徹夜で国会議事堂の前で坐り込みもしていました。そんな時安保の大壁画を描いたので問題になりました。
山中 樺(かんば)美智子さんが亡くなった時。
武田 葬送の行列。その絵は剥がしましたが、花をささげた部分を自分用に残しました。
大石 そのころ武田さんは、昭和会展〔註02〕、安井賞〔註03〕賞候補新人展など女性で一番活躍していた。「春陽だけではだめよ」と言っていましたね。
武田 外で戦わなければダメだと思っていました。90年代には、評論家が色々な会の人をピックアップした「女流画家展」というデパート企画に出品しました。国際形象展〔註04〕にも出品しました。昭和会には当時自薦というのがあり、会友の頃から何回か出しました。
金谷 路可さんの思い出の品とかありますか?
武田 遺品はありません。路可は、戦前はフランスに留学し、戦後は26聖人を描くことになったのでイタリアへ行きました。暁星小学校の(東京、麹町)出身です。
大石 今関鷲人先生(春陽会会員)はそこでの知り合いだと思う。今関さんがフランスに行っていた時、イタリアの路可の家に行きお茶をごちそうになったと聞きました。
金谷 今関先生のご実家は千葉(長生郡長南町)の旧家、秋元恒先生(春陽会会員)も(千葉県流山市)。
武田 秋元先生と一緒に会員になりました(1976年 第53回展)。
山中 秋元先生の春陽展での遺作の絵はよかった。有楽町での個展も。
大石 遺作展もよかった。当時、この方のすごさがわからなかったのが残念。
武田 昭和51年会員推挙組では大石さんと長田久子さん(春陽会会員)も一緒。
大石 長田さんとは歳が近かったのでよく話をしました。色々な人を紹介してくれました。
山中 山崎貴夫さん(春陽会会員)もいい方。ああいう方はもういない。研究会でよく怒っていらした。
武田 宮本さん(春陽会会員)は、岡さんの2番弟子。「殿下」と言われていました。ぬっと立っている。
山中 ご病気になってお気の毒でした。2人の弟子(山崎貴夫、宮本靖夫)はいいライバルでした。
大石 笠木實さん(春陽会会員)も岡さんの弟子、一時岡さんの家に奥さんと子供をつれて世話になっていました。スキーも料理も釣りもうまい人。
山中 笠木さんは若いころ黒い色ばかりで、黒しか使えないのかと言われたそうです。
大石 自分も黄土色しか使えないのかと母に言われました。当時武蔵美で流行っていた色でした。
武田 私たちの時はライトレッド。ライトレッドだけで描けというのがありました。
大石 山口長男は黄土色とライトレッド。
■人物というモチーフ
大石 山中さんは女子美を卒業されて。
山中 結婚は早かったです。でも小さいころから絵が好きで、主婦をやっていましたが絵はずっと出品していました。春陽会には46回展から出品して20年間くらい会友でした。その頃は身近なものを書いていましたが10年たってもなかなかタブローになりませんでした。若い時は絵になっていると思っても違う。私は何でも遅い。時間がかかる。
大石 山中さんはある時から人物を描かれるようになったが、そのお話を聞きたい。
武田 今の絵は中心にあなたの顔とフクロウが描かれているけれど、フクロウは知恵の象徴で、自画像と思ってもいいかしら?
山中 似ているかもしれませんね。植物のモチーフにたどり着くまでも20年かかりました。昔から、もう一つやりたいのが人物でしたがなかなか手を付けられませんでした。研究会で吉江麗子先生は抽象的な方向でなければあまり認めてくれませんでした。植物は一応抽象的な方向まで描けましたが、顔など、人物を描いていくと「えっ」と言われました。歳を取って、おかしいと言われてもやっていいかなと。人物は抽象的にならない。観念的で難しい部分があります。
大石 ストレートに伝わってきます。相当勉強されていて、元気と勢いがすごい。表面だけでない。画廊岳(がく)での二階の展示はすべて本人だった、格好つけていない。
山中 植物を描いているとき、武田先生に「モチーフを変えてみたら」と言われ、それが良かったと思う。御恩を感じています。でもこれを封印したら心残りだから……で、なんとかやっています。モチーフを変えたことを良くないと言う人もいるし、ぶれないでやるべきだと言われたこともあります。でもほとんどの人は若いころとは違う絵、人の好き嫌いに合わせられない。
武田 変えていく人と、変えないでやる人と、タイプは両方ありますが、その時代に共通した匂いというものはあります。
大石 我々、力がなくなってきて、いかんなと思っていた時にあの絵はゴーンときました。中川賞の時、皆感動した。そういう人を会は望んでいる。
山中 皆若い人、若い人≠ニ言いすぎるのでは。世の中歳取っているというだけでお邪魔しているというような風潮があります。
金谷 今の若い人に望むことはなにかありますか?どういう姿勢で臨めばよいとお考えですか。
武田 世界的に時代そのものの影響を受けているから、ものの考え方が違ってくるのは仕方ありません。人に何を言われても絶対こうするという気持ちが無くなってきているのではないでしょうか。人から良く言われたらすぐに絵を変えたり。人の意見を聞くのもよいが、自分はこうなんだという姿勢。私たちには少しそういう姿勢が残っています。
大石 自分たちは美大を出ているけど教えてはいない。教えている先生にはパターンがあるのでは。
武田 先日、美術学校で教えている方々と食事をしたときにびっくりしました。学生たちはセットされたモチーフがあるのに写真を見て描く。実物を見ないで虚像を見て描く。あきれました。それを先生は厳しく言わない。どうしてそういうことになったのか。写真には触感がないのに。
大石 昔、美術の先生は絵描きとして話をしてくれるのがうれしかった。春陽会にはそういう人達がいました。今は先生と生徒になってしまっています。
武田 今は絵が売れなくて、絵に関係して収入があるのは学校の先生。絵が売れるのは一握りだけです。自分達は絵画ブームを経験しましたが。
金谷 先日インタビューした岩浪先生が「昔は長者番付に画家が載っていた。今はそういうのが全くないから、今の若い人たちは何を頼りに描けばよいのか? という感じなんだろうな」とおっしゃっていた。昔はドリームがありました。
大石 美術館でも買ってくれない。
武田 昔は財産として買う人がいました。
山中 今は漫画ですか。新美術館でも展覧会がある。
金谷 サブカルチャー(下位文化、非正統的文化)か。そういうところには若い人が集まる。
全員 う〜ん……。
金谷 時間が来たので、この辺で終わりとします。ありがとうございました。
2019 春陽展出品作品
武田百合子 山中真寿子
〔編集〕木村梨枝子 金谷ちぐさ
◆註
01|寒冷紗
目が粗く、薄地で平織に織り込んだ布。寒冷地での農業や縫製、建築、食品、美術などの分野に使われている。
02|昭和会展
日動画廊が主催する展覧会。1966年に第1回展。当時、昭和生まれの若手作家を中心に、ということが展覧会の名前の由来ともなった。
03|安井賞
安井會太郎の画業を顕彰した新人洋画家の登竜門で、具象画家の発掘を目的に創立され、1957年から第40回まで続いた。第1回受賞者は春陽会の田中
岑 最後の受賞者は同じく小林裕児である。
04|国際形象展
1962年、朝井閑右衛門 鳥海青児、海老原喜之助、林武、森芳雄、野口弥太郎、荻須高徳、岡鹿之助、高畠達四郎、山口薫らが組織し、百貨店三越が主催した展覧会。