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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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アーカイブ インタビューINTERVIEW

齋藤カオル氏 に聞く 〔聞き手〕大石洋次郎、田村勉、金谷ちぐさ


左:齋藤氏、中央:田村勉、右:金谷ちぐさ、大石洋二郎撮影

1931(昭和6)年神奈川県葉山町に生れる。本名:芳。1971(昭和46)年第48回春陽展に初出品。1972(昭和47)年第49回春陽展で春陽会賞受賞。1974(昭和49)年春陽会版画部会員に推挙される。2005(平成17)年春陽会退会。2021(令和3)年逝去 享年90。

2016年6月8日 於・齋藤宅

■春陽以前・油絵時代
齋藤 春陽会を辞めてから身体がガタっと悪くなってね。
大石 健康になるためにもう一度春陽会に戻って下さいますか(笑)。
齋藤 私は葉山町の生まれでここには35年くらい住んでいます。葉山町は避暑地で、夏の日が暮れる頃、夕食後傘をさして下駄をカラコロ鳴らしながら夕涼みに通っていく、また夜中の11時頃、カラコロカラコロ音がして帰ってくる。親父は鎌倉彫の職人で店をやっていて、普段は下駄とか運動靴とか売っていた。小学生の頃戦争が始まって戦時色になっていき、空襲警報が鳴ってB29がやってくる。商店は閉められて、漆が入ってこなくなった我が家はどんどん景気が悪くなって鎌倉彫は売れなくなり、父は食品会社へ勤めました。横須賀中学へ四年制で入ったが戦争が終わって6年。一番出世が島田章三。私より級は上で、実際は1、2年下でした。羽田裕君(春陽会会員)が10歳くらい下。私のかみさんが彼の出た学校の教員をやっていたのですが、芸大に入ったと挨拶に来たそうです。
 私は親父に、1年間池袋の研究所(アカデミー46美術研究所〔註1〕)に行かせてくれと頼みました。藤田嗣治と鶴田吾郎 〔註2〕、中村直人〔註3〕 らが1946年に始めた研究所です。だれもいなく1人で石膏像を描いていました。午前中は初心者、美校志望。午後はヌードデッサン。次の日行ったら大勢いる。オヤジばかりたくさんいる。川端(画学校)を出たおっさん、国画会の高松健太郎。前田常作は武蔵美に入る前に来ていて、池袋から要町まで一緒にリンゴをかじりながら歩きました。10回くらいかな。次に横須賀で創元会の爺さんが塾をやっているところに見に行きましたが、仏壇を金色まばゆくそっくりに描く、変なところに来てしまったと思いました。いい人で授業料はいらないから来いと言われて、4、5回行ったかな。それから自由美術〔註4〕の石膏デッサンの勉強の場所に居ついてしまいました。大学を出ていないので、研究所で一番にならなければダメだと思い、一生懸命油絵を描きました。当時、自由美術には松本竣介がいると思ったら一年前に死んでいました。昭和24年自由美術に出品したら入選したが、暗くて額縁だけが目立ってがっかりした。韻頌亭(上野公園内の料亭)で懇親会。鹿の子ひとつとカストリ。私が一番年下に見えた。森芳雄、鶴岡政男がいて、森芳雄は奥で寝そべっていた、皆かしこまっているのに……。
 次の年落選して癪に障(さわ)ってね。搬出の時、「何で落としたのか、俺より下手なのがたくさん入っているのに」と聞いていたら、野見山暁治さんが来て「何もめてるんだ? 仕方ねえなあ、絵は描くんだよ、絵っていうのは女と同じなんだ、いろいろ難しいんだよ。」と。自由美術に落とされた翌年にモダンアート〔註5〕が出来て(1950年9月)荒井龍男の息子と友達になったら、親父を紹介してくれました。モダンアートに入ったが、自由美術に落ちたのが癪でまた自由美術に出したら入ったのでこれでいいやとやめました。モダンアート(上野)は家から遠く、あまり一生懸命ではありませんでした。その後1964年にモダンアート協会 の会員になりました。だけどそのころは、なんか団体ズレがしちゃって。
大石 モダンアートを辞めた頃は油絵だったのですか?
齋藤 辞めた頃、67年かな、グループを作って村松画廊でグループ展をやりました。100号4枚寝ずに描いて皆で並べ、当番をやったけれど、客は誰も来ない。一人で坐って絵を見ていたら、俺は何やってんだろうって思い、途端にバカバカしくなって。完全なスランプ状態。どうしようかな・・

■版画へ、そして駒井哲郎のいる春陽会へ
金谷 なぜ春陽会へいらしたのですか、なぜ版画なのですか? 
齋藤 春陽会は1971年初出品。春陽会賞は版画で1972年、第49回展でした。モダンアートの時とは名前を変えました。カタカナでカオル≠ノ。
 以前鎌倉近代美術館でシェル美術展〔註6〕をやっていましたが、版画の斎藤寿一〔註7〕の作品がきれいな抽象画なんだ。67年に油はダメだな、もう一度版画にもどろうか、でも何やろうか……当時エッチングをする人はいっぱいいました。メゾチントはやたらややこしい。でも、浜口陽三〔註8〕はアメリカで、長谷川潔〔註9〕はフランスで、生きている奴がやっているのだから俺にできないわけはないだろう、でメゾチントを始め、春陽会に出品。
田村 誰かがお誘いして春陽会に入ったのではないのですか。
齋藤 誰も知りませんでした。何故春陽会に出したかというと、あのころ春陽会の版画はプロが出品〔註10〕していてすごかったから。
 会場には3点並びました。誰も知らないし、受付の幸田美枝子さんとも口を聞かないで、それまで春陽会そのものも見ていなかったが連合展に、南大路一さん、五味秀夫さん、宮城音蔵さん(いずれも春陽会会員)が出していました。
 春陽会には駒井哲郎〔註11〕さんがいて、あこがれでした。駒井さんにはオ―ラがあって、古い都美術館内で廊下を通る駒井さんを「駒井だ、駒井だ」と皆で見に行ったものです。
金谷 駒井さんが亡くなったのは76年なので、先生が会員になられてわりとすぐでしたね。
齋藤 駒井さんと云えば、酒飲まないと人間のある一面が分からない。南大路さんが言っていたけど、「駒井さんには困ったよ、飲むと火鉢の真赤になった炭火をつかんで畳の上に並べるんだよ」、と。あれは、何ていうか神経の細い人だったのでしょうね。
田村 関野洋作さん(春陽会会員)のお父さん、準一郎さんと駒井さんが関野さん宅で飲んでいて、飲んで飲んで仕方がないから駅まで送っていく、そしたら自分より先にまたうちに帰ってきてお父さんと飲んでいた、って。 
齋藤 2回目に賞をくれなかったらやめようと思っていたら電報で春陽会賞だといわれ、松本楼〔註12〕で石井鶴三さんから授与されました。(石井さんは翌年亡くなる)次の年に準会員。京王デパートで版画の展覧会。岡本省吾(春陽会会員)さんが来て、駒井さんが斎藤は準会員を飛ばして会員にしろ、と言っていたと教えてくれました。画商が来て、終わったらすぐ来てくれ、銀座で接待。次の年に準会員。京王デパートで版画の展覧会。40歳で出したので妙な気分でしたね。出だしの目的が版画家としてやっていけるかな、と。自信はありました。

■版画家として
齋藤 初入選の時に銀座の昭和画廊が見に来て、すぐ手紙をよこし、良い作品なので東京に出る都合があれば寄ってくれ≠ニ。それでグランプリ展〔註13〕に3点出して売れました。「齋藤さん、いくらくらい欲しい?」「1万円くらい欲しいですね」と言ったら「2万円」になって、それで売れちゃった。駒井さんが来て、「いい作品だね。版画っていうものは技術が大事だからね」と。喜んでくれました。プチフォルムの個展の時は客がいっぱい入って「パーティをやっているのかと思ったらそうじゃないんだ」と言われました。二見正一が下でやっていて、番頭が降りてきて「先生ちょっと」と、桑原住雄という評論家が幻想展をやるんで昭和画廊から僕の作品を持って行くことになり、持って行ったら、もう届けてあるの≠ニ言われ、見せたら、いくら欲しい?20万円欲しい≠ニ言ったら、くれなかった気がするが。作品を結構持って行かれました。画料をちゃんともらったかどうか忘れたが、大阪フォルム、名古屋展では完売、初日に赤丸で真っ赤になっている。新幹線グリーンで番頭が一人ついて、クラブによって。あの頃、1960年ころから世の中で絵が売れ出し、版画も売れ始め、ちょうどうまく波に乗りました。メゾチントは佐藤信夫だとか丹阿弥丹波子(春陽会会員)、幸田等がいたが全部違う。それから兜屋画廊〔註14〕の番頭にアメリカで個展やりませんか?と誘われ、その気になってサンフランシスコ、ピッツバーグ、ニューヨーク、カナダと廻り、トロントからまたアメリカへ戻り、冬でね、疲れて動けなくなったこともありました。
大石 相当の枚数を作っていくのですか?
齋藤 展覧会は長い期間はやっていない。パーティーやる為に持って行きます。トラックに積んで、会場で売るのだが、パーティーはすごい。
金谷 パーティー写真では、美女に囲まれタキシードですね、すごい。
齋藤 男性はタキシードと女性はドレス。当時かみさんが身体が悪かったので一人で高島屋にタキシードを買いに行って初めて着ました。二晩のパーティー、ジャズの生演奏もあってコレクターに食事に誘われました。

■作品と技法
齋藤 これが原板。(実物を見せていただく。銅板と道具)
 いちばん粗いのはこれ65(目立ての道具)。研いでもらうのだが、普段は何度も自分で研ぐ。120がいちばん細かい。
大石、金谷 わ〜、すごい。
齋藤 傷つけたところが黒くなる。これは春陽展の作品。
大石 感動してます、見るの初めてです。これ、失敗したらどうなります?
齋藤 場所によりますが、顔なんか傷が付いたらだめ。
金谷 どれくらい時間がかかるのですか?
齋藤 一ヵ月くらい。
大石 失礼なことを聞きますが、齢を取ると出来にくくなりますか?
齋藤 機械買いました。
 これは女シリーズ、朝日新聞夕刊に連載したものです。特集版の表紙になりました。


斎藤カオル 《女シリーズ》 メゾチント

メゾチントの道具

金谷 大英博物館主催「現代日本版画展」に出品ポスターになる、と経歴に書かれています。
齋藤 行かなかったのだけど。 
大石 このシリーズには先生の女性観があるのですか? モデルはいるのですか?
齋藤 娘が高校生のころかな、形として使いましたけど、突き詰めていくと無表情になっちゃうんだな。この作品(ポスターになった版画)は稼げました。カナダ人はこれが大好きで。その後教科書やカレンダーで使いたいとか言われて。
これは求龍堂の画集。特装本で20万円。全部売れた。
大石、(金谷) 素晴らしい!!
田村 年間所得すごかったでしょう。お金持だった。
齋藤 だった、で過去形。当時別荘を持っていたよ。10年で売ったけど。

■会務の思い出
齋藤 今関さんとはよく酒を飲みました。春陽会の実行委員会で、最初今関さんが絵画部の実行委員長、私が版画の方でした。
田村 岡鹿之助先生が亡くなって、青山斎場の受付を僕と一緒にやったことがありましたね。
齋藤 あの頃は大変だったですよ、事務所をやった時は、でかい葬式にあいませんようにと思ったものです。青山斎場では岡(鹿之助)さんと中川一政さん。藤井令太郎さんはお宅での葬儀でした。当時は張り切って葬式をやりました。葬式の帰りに駅の近くで飲んでいたら地震があって飛び出して、でもまた戻って飲み直しました。
田村 志村和夫さん(春陽会会員)も三雲祥之助さん(春陽会会員)の時も、外の暑い中立っていました。
金谷 事務所時代(1995‐96年)の思い出、ありますか?
齋藤 会費値上げの提案を撤回しました。?
田村 僕も資料に書いてきましたが、値上げを撤回しました。途中で会費を五千円値上げすると言ったら文句が出て撤回になりました。
齋藤 前の松島治基事務所で予防線を張った、値上げする、値上げすると言い続けました。
田村 引き受けた時赤字だったから。
齋藤 値上げという言葉を耳に慣れさせたかった。事あるごとに値上げがあるかもしれないよと言っていたが、松島事務所から我々になった時に値上げは決まっていました。7月の理事会で値上げについてのいい案があったら9月までに事務所に言ってくれ、と。そしたら建白書が出てきた。こんな長い建白書、春陽会で研究所を作って会員は無料奉仕。値上げは嫌だ、僕だって値上げの理事長になるなんて冗談じゃない、何か(いい案は)ないかな、そしたら画集の印刷をどこだかに任せれば安くなるという。もし値上げになったら辞めようと思ったね。誰も値上げはしたくないんだ。
田村 絵画で理事長をやる人がいなかった。値上げをしなければならないから。やられたなーと思った(松島さんに)。
齋藤 予算が足りないので値上げはしなければならないが、誰も値上げの理事長になるのは嫌だから、松島さんの次に理事長をやってくれる人がいませんでした
田村 僕を付けるから、齋藤さんやってくれという事になって。
齋藤 嫌だと言うと敵前逃亡と言われるので、仕方ないから理事長をやりましたよ。もし、値上げ撤回を撤回されたら辞めりゃいいんだと。
 僕がやった時には偉い先生方はみんな生きていました。倉田三郎さんは面白い、南大路一さん紳士。宮城さんは正論。
大石 宮城さんはぼくの仲人。酒飲まないから会話が直球。素敵な人でしたよ。

■遠足
大石 幸田美枝子先生に「今度齋藤先生のところに行きますが思い出がありますか?」とお聞きしたら、鎌倉に遠足に行って、齋藤さんは奥さん手作りの凝ったのり巻きを持って来ていた≠ニ。それから前田先生のお宅に二人で一緒に行って紅茶を御馳走になった≠ニか。
齋藤 幸田さんと、矢野素直さん、五味さん、関四郎五郎さん、宮城さん、横山了平さん、山崎貴夫さん、岸葉子さん。あの時は賞を取った後で、行かねばならないかと。版画では幸田さんだけ。没落した金持ちの別荘、北鎌倉あたり。芝生で相撲取ったりしました。
 二度目の遠足は 柴又に行きました。川船に乗って、行って帰ってきて。川魚料理屋に入って。会のだれだったかが入れ歯を落っことして、皆で探しに行ったら口の中に入っていたの。(笑)

■勉強は独学で
齋藤 一生懸命勉強しました。団体と美術雑誌で。中学3年のころから、『みづゑ』や『アトリヱ』『美術手帖』、『藝術新潮』で勉強しました。私は人が描いているのを見たことがない。教えてもらったこともない。私は最初から絵描きになるつもりでした。絵描きがどんなものか知らないで・・

〔編集〕木村梨枝子 金谷ちぐさ。〔脚注〕中山岳美

◆註
01|アカデミー46美術研究所
1946年藤田嗣治、鶴田吾郎、中村直人、井上幸らにより実技指導を目的として東京豊島に創立された絵画研究所。
 
02|鶴田吾郎
1890年‐1969年 日展会員。春陽会創立会員倉田白羊に油彩を学ぶ。以後、白馬会研究所や太平洋画会研究所で学ぶ。大正2年から大正9年まで朝鮮、中国、シベリアに滞在。大正9年第二回帝展に出品後、帝展、文展、日展で活躍。太戦中に制作した戦争記録画「神兵、パレンバンに降下す」は著名。

03|中村直人
1905年‐1981年 日本の彫刻家、画家 山本鼎、小杉放庵に師事後、院展同人になる。渡欧してパリ展で成功し国際的な画家なった。パリで12年間活動後二科会に所属。

04|自由美術協会
日本の美術団体。1937年に、長谷川三郎や浜口陽三、山口薫、瑛九、小城基、藤岡昇等によって前衛的美術団体「自由美術家協会」として結成され、現在に至る

05|モダンアート協会
日本の美術団体。1950年に、荒井龍男・山口薫等20人の画家たちによって組織された。

06|シェル美術展
主催は昭和シェル石油。平面作品の公募展で、若手作家の発掘に力を注いでいる。春陽会では田中岑(1956年 2等)が受賞している。

07|斎藤寿一
1931年‐1992年 油彩を春陽会の加山四郎等に学ぶ。油彩を春陽展に出品。1958年パリ留学、「アトリエ17」で山口陽三等に学ぶ。数々の版画国際展等に出品。1951シェル美術賞展でシェル賞受賞。サイトウ・ブルーと呼ばれる代表作「青い光」があり、秀作。

08|浜口陽三
1909年‐2000年 東京美術学校彫刻科に入学。1930年美校中退。フランスに渡り、油彩、水彩、銅版画などの制作に励む。第2次大戦の激化により帰国。1948年頃から銅版画を本格的に開始。1953年再渡仏、カラーメゾチントで繊細で静謐な独自の世界を生み出す。各種国際版画展で受賞し、版画家として確固たる地位を築く。1981年、サンフランシスコに移り、1996年帰国。駒井哲郎と共に日本の銅版画作家に大きな影響を与える。

09|長谷川潔
1891‐1980 春陽会会員。黒田清輝に素描、岡田三郎助や藤島武二に油彩を学ぶ。1918年渡仏、以後、サロンドートンヌなどに油彩画、版画を出品しながらメゾチントの復興を図る。在仏のまま1928年春陽会会員となり、春陽会版画を陰で支える。1935年レジオン・ドヌール勲章受賞、1966年フランス文化勲章受賞。

10|春陽会の版画
版画を扱う美術団体として歴史を持つ。1922年会創立以来油彩にこだわらず素描・水墨・水彩が受け入れられ、第2回展では銅版画が展示されている。第6回展で在仏の長谷川潔を会員として招き版画室を設置。版画室の設置により、戦後日本の版画界で活躍する著名な版画家達が挙って出品。1952年、版画の独自審査を開始し、「繊細でモダンで洗練された版画」を目指す。1960以降、長谷川潔、北岡文雄、駒井哲郎、前田藤四郎、古川竜生、清宮質文など日本の著名な版画家が会員として名を連ねる。


11|駒井哲郎
1920‐1976年 春陽会会員。美校時代に銅版画を始める。1950年春陽会初出品、審査時創立会員の小杉放菴をして「これは審査するもんじゃねえなあ。立派なもんだ」と言わしめる。1954年フランス留学で長谷川潔と親交を深める。芸大教授として後進の指導にあたり、日本の銅版画の隆盛に寄与する。日本の銅版画界の巨星とも言われる。

12|松本楼
東京都千代田区日比谷公園内にある洋風レストラン。1903年日比谷公園を開園するにあたりオープンし、明治・大正・昭和の多くの著名人に愛された。初期春陽会の授賞式、懇親会にも利用され、春陽会100回展祝賀会もここで行われた。

13|グランプリ展(版画グランプリ展)
銀座日動画廊主催の版画展で、1970年に版画作家の発掘と育成、また青年層の版画愛好者の開拓をめざし、1970年から16年間開催した展覧会。1980年に春陽会会員小浦昇がグランプリを受賞している。

14|兜屋画廊
1919年に前身となる「兜屋画堂」を神田神保町に設立して以来、およそ100年にわたり、絵画をはじめとする多くの美術作品を取り扱ってきた銀座8丁目の画廊。 


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