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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ
春陽会史料館
TEL. 03-6380-9145
〒102-0085 東京都千代田区六番町1番町一番館
アーカイブ インタビュー
INTERVIEW
岩浪 弘氏 に聞く
〔聞き手〕大石洋次郎、金谷ちぐさ
1931(昭和6)年東京都に生れる。1960(昭和35)年東京藝術大学絵画科油画専攻卒業。安宅賞受賞。大橋賞受賞。1964(昭和39)年第41回展で研究賞を受賞。1971(昭和46)年第48回展で会員に推挙。1978(昭和53)年〜1984(昭和59)年春陽会研究会主任。1989(昭和64/平成元年)〜1991(平成3)年事務所を担当。大妻女子大学教授を務める。2023年(令和5)年逝去。享年92。
2017年10月3日 13時〜15時 於・立川市、たましんギャラリー
■光風会研究所時代
岩浪
私がこの世界に入ったのは高校を出てからですが、高校では美術部に在籍していて『みづゑ』〔註1〕など美術関係の雑誌を見ていました。大病して一年半のブランクがあり、高校を出た時は20歳になっていました。芸大受験科目が石膏デッサンなので、都電で通える研究所を探し、『美術手帖』〔註2〕に広告が出ていた光風会〔註3〕の研究所へ行きました。受験科があって芸大を目指す人が多く、朝からコースがあって夜は人体を描きました。高田正二郎先生というデザイン基礎の先生がいて、油よりデザインを目指す人が多かった。研究所があった宝町交差点あたりの一角は銀座より書店が多く、ギャラリーも出来て海老原喜之助〔註4〕さんのデッサン展があり、初めて直に見ました。よかった。そのころ春陽展も国画と一緒に見ていました。光風会研究所で友人が事務員と大喧嘩をして、そのとばっちりで私も行かなくなりました。次に行ったのは駿河台ニコライ堂の裏で個人的に教えている所で、先生は岡鹿之助先生と一緒に引き揚げ船で帰国した絵描きでした。そこへ1年以上通いました。私は海老原喜之助が好きでした。鋭い人体描写。線描、曲線に凝ってしまったのです。
■個性あふれる春陽会研究会
岩浪
僕は迷い込むような形で(春陽会に)出していました。誰かに師事することもなしで。出しているうちに、春陽会研究会は加山四郎先生が主任(1958/昭和33年〜1962/昭和37年)だったが、欠員になるのでやってくれないかという話を前田舜敏(春陽会会員)さんが持ってきて、私はふらふらしていたので引き継ぎました。(岩浪弘研究会主任:1978/昭和53年〜1984/昭和59年)
引き継いだ当時の研究会は皆個性を貫いていました。一人一人がこういうやり方で行こう、と思ったらそれが許されるところでした。面白かった。研究生は今偉そうにしている方々……(笑)大庭勝郎さんに交代したら亡くなった(1982年没)。
大石
昔、先生と一緒に事務所(岩浪弘事務所:1989〜91年)やりましたね。
岩浪
大石さん、逃げちゃうのではないかと思ったよ。
大石
以前、自分は南大路さん(春陽会会員)に「春陽会を辞めます、こんな生ぬるい会」と言ったら、「どうぞ」と言われた。その時「そんなこと言わないで」と言われたら辞めたかもしれない。
大石
先生と釣りに行きました。横山了平さん(春陽会会員)と、皆でお酒飲みましたね。
岩浪
春陽会は和田衛明さん(春陽会会員)達、酒飲みが多かったね。酒は、昔は飲んでいたが飲まなくなりました。釣りはよく行きました。
■春陽会評について
岩浪
たまたま日動画廊〔註5〕で出している『繪(え)』という雑誌を見て、黒田鵬心〔註6〕という評論家の、大正から昭和の画壇の話にカツンときました。ある時期の春陽会について書いていたのですが、総括して春陽会に言えることは、中川一政さんたちとか年寄りの、仕事が無くなった人たちが集まっている雰囲気の会だと。春陽会は、そのころ土台作りが終わって一つの集団として認められるようになった時期でした。それまでの中心的な作家達が衰退期に入って、それを彼なりに指摘したのだと思います。フォービスムの萬鉄五カは二科〔註7〕の時は元気だったが春陽に入ってからは水墨、日本画的境地になっていましたがその辺を指摘していました。人間集まれば必ず波があれば底もある。
私も迷ったり挫折しながらやってきました。春陽会自体もそうだった。前衛、アクションペインティングもありました。小柳秀太郎(春陽会会員)さんが130号くらいのキャンバスに赤の横線一本引いた絵を描いたり、そういう時代がある。
芸大1、2年生の頃ですが、公募団体は具象的なもののかけらが入っていると落とされた時期がありました。アクションペインティングなど天井からロープをつるして手で描いたり。アメリカ人でピストルの先端に絵具をつけて撃つ、というのもあり、イブ・クラインは人体モデルの拓本をつくりました。林武〔註8〕たちが新具象と言って国際形象展〔註9〕を作って対抗しましたが、春陽会もたいていの人が抽象でしたね。
金谷
辞めたいと思ったことはありますか?
岩浪
最初に出しちゃったから。方向が違うことは分かっていて、他の会から、辞めてこちらへ来いとも言われたけれど春陽会は大変面白い会だよね。それで勝手なことやってね。
大石
昔入選200名、今は400名。よその会も皆そうなっている。今は、この作家に惚れて会に入ったというのが無い。
岩浪
無理もない。たとえば、最近文化で美術関係の人が長者番付に出ない。昔は、林武、中川一政とかが出ていた。スポーツ選手の方が、能力や経済的見返りがはっきりしている。そんな中で若い人が絵を描く、情熱を持ち続けるのはどうなんだろうなと思って。
■線一本を描いたとたん、何かがある
岩浪
今は教育とか文化、マスコミや教員を含め、浅い層で手探りしていて、本質的でない。むしろ医学、物理、天文学等は根本的なところまで解明しようとしている。美術はそこへ行っていない。本当は、絵には線一本を描いたとたん、何かがあるのに。
芸大の助手の時、授業で塑像とデッサンが交互にありました。彫刻の指導で石井鶴三先生が学生指導のために作った芯棒が学校の倉庫に残っていましたが、木切れなどに荒縄を巻いただけだが、そこに何か命がありました。
海老原さんのデッサンもそう。石膏像のデッサンだが、芸大に入ったとき、原寸大の騎馬像に感動した。たそがれ(メディチ家廟)も描いたけれど今そういう心に迫るものはないでしょう。
■波打つ時代に
岩浪
世の中に作品を出す、そこまではしなくてはならないが、残しておくことはできないでしょう。命が終わった瞬間、朽ちていくのでは。どうしたらいいんでしょうね。少なくとも日向ぼっこをしながらもやもやっと描いていたくない。
大石
八十六歳になられる?
岩浪
八十六歳、考えないですよ。
金谷
お元気ですね。毎日描いていらっしゃるのですか?
岩浪
描かないですよ。描きかけを置いてあるけど。最近、昔小学生だった画塾の教え子が60歳定年になって、絵を描きたいと訪ねてきた。人間の想像力というかクリエティブな心は消えないんだね。
最近絵の感覚が鋭くなってきて、体の状態が悪い時は霧の音が聞こえる。屋根から落ちてくる音が聞こえたが、霧雨ではなく、表現できない音。こういう波打つ時代だからお互い大変難しいところだけど息が続く限りへこたれずにやっていきましょう。
大石
100回展の後どうなるか、やる人いるのかな。
岩浪
ニュー春陽会。公募展はそれでも生き残ると思う。
無題」M40号
〔編集〕木村梨枝子 金谷ちぐさ
◆註
01|『みづゑ』
1905年(明治38年)に水彩画家の大下藤次郎が創刊した美術専門誌。水彩画を普及させる一方、近代絵画の紹介に力を注いだ。1992年休刊。
02|『美術手帖』
1948年に創刊された美術雑誌。戦後美術を紹介してきた。現在も現代アートの専門誌である。
03|光風会
白馬会解散後、その中の7人の発起人により創立された。明治45年(1912年)上野竹之台陳列館において第1回展覧会を開催した。
04|海老原喜之助
1904年-1970年 洋画家 フランスと日本で活躍。鮮やかな青を使い「エビハラ・ブルー」と呼ばれた作品を多く制作した。
05|日動画廊
1928年創業。国内で最も歴史があるとされる洋画商。
06|黒田鵬心
1885年-1967年 美術評論家。日仏芸術社を創設し、フランス現代美術展を開催した。
07|二科
1914年(大正3年)文部省美術展覧会(文展、現日展)から在野の美術団体として独立し「二科会」が結成される。小杉放菴、梅原龍三郎が創立会員に名を連らね、留学から帰国した森田恒友等も会員となる。1917年小杉、森田は退会、次いで梅原も退会した。その後岸田劉生、萬鉄五郎、木村荘八、中川一政等も入選、受賞した経緯がある。
08|林武
1896年-1975年 洋画家 独立美術協会設立会員 絢爛豪華な作風で知られる。
09|国際形象展
林武、海老原喜之助らと、カシニョールやビュッフェなど当時のフランスの画家が組織し、三越で開催された展覧会。
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