本文へスキップ
美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ
春陽会史料館
TEL. 03-6380-9145
〒102-0085 東京都千代田区六番町1番町一番館
アーカイブ インタビュー
INTERVIEW
吉江麗子氏 に聞く
〔聞き手〕大石洋次郎、金谷ちぐさ
1925(大正14)年東京都に生れる。1947(昭和22)年 女子美術専門学校洋画家卒業。この頃から女流画家協会展に出品する(以後継続)。1950(昭和25)年武蔵野美術学校研究科修了する。在学中、三雲祥之助に師事する。1953(昭和28)年〜1961(昭和36)年女子美術大学洋画科専任講師を勤める。1962(昭和37)年〜1995(平成7)年女子美術大学洋画科非常勤講師を勤める。1962(昭和37)第39回春陽展で春陽会賞受賞 春陽会絵画部準会員に推挙される。1963(昭和38)年春陽会絵画部会員に推挙される。1996(平成8)年春陽会を退会する。
2014年9月16日 14時〜15時45分 於・銀座東武ホテル ラウンジ
■春陽会に出品する
吉江
女子美(当時女子美術専門学校)在学中に学徒動員になり、工場で零戦の部品を作っていました。戦後女子美に戻って1年半くらいで卒業し、武蔵美(当時武蔵野美術学校)が女性も入れることになったので、行くことにしました。そこに三雲祥之助さんがいて、私や三吉雅さん(春陽会会員2011年逝去)鳥羽郁代〔註1〕さんが三雲さんの絵のモデルになったこともありました。
三雲さんに、「春陽会に出しませんか?」と言われたが、「あんなおじいさんみたいな会はイヤ」と。何でもはっきり言う人間ね、私は。三雲さんは全然怒りもせずに面白いやつだな、と思ったみたい。それで新制作に出したけれど、二度目は落選しました。そのころ春陽会は宮城音蔵さん、五味秀夫さん、藤井令太郎さんなど一室がすごくて、それまでの春陽会から変わってきていた。それならと出品し始めました。藤井さんも元気だったし、三雲さんでしょ。主人(吉江新二)が五味さんとクラスメイトで、主人は日本画だったけどわりと仲良く、飲み仲間でした。五味さんの家には随分前から遊びに行きました。
いつごろからだったか……、それまでの静かな風景画とか、ちょっと小奇麗な作品群だったのが、ちょっと造形的な作品が一室に並びましだ。一室に宮城音蔵さん、藤井令太郎さん(春陽会会員1980年逝去)それならと出品し始めました。そしたら南大路さんが、私は見当違いな作品を出していたのだけど「アーこういうのを1室に並べなきゃ」と言って、飾ってくれました。
国画〔註2〕と春陽は同時開催で、国画 を見ると派手で、チクショー、春陽はダメだな≠ニ思って、でもそれから春陽を見ると、春陽には心があるのよ。内面的な心象的な深みがあると思って納得しました。
新制作 にも出品したけれど春陽会に出したら、向こうから「あーよかったですね」と言ってくれて、春陽会ってなんて良い会なんだろうと思いました。在野で平らな絵描き同志の会といった感じでした。
大石
吉江さんは絵画の女性の中心でした。
吉江
特に女だからとも思っていなくて、一人の人間として描いていました。お互いを先生とは言いませんでした。山崎(貴夫)さん夫妻、長田久子さん、大石君、横山了平さん、前田舜敏さん、岸葉子さん。あのころ、戦中派の絵描きは平等で上も下もないということ。そんな感じがありました。絵描きは同等の気持ちのいい仲間だというのがあったのに……変わってきた。
■準会員制度撤廃
金谷
準会員制度がなくなったころについてお話し下さい。準会員制度がなくなったのは入江観事務所の時でしたね。その時に吉江先生が意見を言ったと聞いています。
吉江
そう、私が意見を言ったの。私が「会員と準会員があって、絵を見てもそんなに違わないのになんで準をつけるのですか? 準という言葉も美しくないし、一般出品と会員だけではどうしていけないのですか?」と言ったら、わりと皆さん受け入れてくださって。人数が増えると肩書が欲しい人が出るのかしら。日本全体が縦社会でどうしようもない。戦後から安保の頃の方が気持がよかった。
主人吉江新二〔註4〕は日本画家でしたが、五味さんとはクラスメイトで、仲の良い飲み仲間でした。五味さんの家には随分前から遊びに行っていて、春陽を辞めても3ヵ月に1度くらいは行っていました。他には山崎貴夫さん夫妻(ご夫妻とも春陽会会員)、長田久子さん(春陽会会員)、大石洋次郎さん(春陽会会員)、横山了平さん(春陽会会員)、前田舜敏さん(春陽会会員)、岸葉子さん(春陽会会員)。藤井さんは早く亡くなられすぎた。新しい会の意気込みのある方だった。大庭勝郎さんも早く亡くなられた(春陽会会員1982年逝去)。寂しい。
中川さんは中川一政賞を地味な絵の人(横堀角次郎春陽会会員)にあげたいというので、皆で楽しくてゲラゲラ笑った記憶があります。
■春陽会退会のいきさつ
大石
春陽会を辞めたいきさつを。
吉江
国の管轄になるのがいやだったから。戦中派は国が嫌いなの。国に欺かれた青春時代を送っているので、何で国の管轄になるのかって、私は国の管轄になるので嫌ですと。国、嫌いです。それで辞めました。
法人化は、最後は挙手で決めたけれど、その時、反対は3人だけでした。
大石
当時美術館は法人化〔註5〕になったところから使用許可を決めていく、と言われていました。外から見た春陽会はどうですか?
吉江
つまんない。残念です。過去、南大路さんが若い人を1室に持ってきた時があったけれど。今年の春陽は昔に戻ったみたいでドキドキするものがなく、穏やかに並んでいる。一般出品でもいいから、えっと言うものを取り上げる気概がないのか、すごく地味で堅実なので残念。でもどこの会もそう。他の会では会員の上に肩書をつけて、まるで肩書の集まりみたい。私たちの時代はそれを取り払うことが目的だったのに、これでは新しい作品を作るのではなく肩書で成り立っているのではないか。寂しい。春陽展は部屋ごとに具象・抽象を分ければいいのに。混じっているとちょっとさびしいし、見にくい。
■女子美時代
大石
昔はどんな絵を描いていましたか?
吉江
昔、絵は下手だったけどすごくまじめでした。学徒動員が終わって女子美3年の時の先生が桜井悦さん。ものすごくかわいがられたので、しっかり描いていました。ただ桜井悦さんのそれから抜け出すのに十年かかりました。四年の時は川島理一郎さん。随筆などで教科書にも載った人、いわゆる絵というものを教えてくれました。卒業してあちこちの研究所に行った後、武蔵美に行きました。面白い絵があり(マチス風、ピカソ風)セザンヌだけでないと思いました。岡田謙三(お洒落でかっこいい先生)が回ってきて私の絵を「これが一番現代感覚の絵」と言ってくれて、それが忘れられません。写実を辞めたころ、昭和25年くらいか・・・。
その後謙三さんはアメリカに行きましたが、その時、あの女の子に宜しくと言ったそうで、それがうれしかったです。帰国後個展に行ったが、恥ずかしくてしゃべれませんでした。
女子美を変えたいと教師六人くらいで意見を言ったら上三人くらいが馘首(くび)になりましたが、学生が吉江さんは良く見てくれたと言ったので非常勤で残りました。学生とは友達のつもり。若い人たちともグループ展をやっていきたい。
■明日の自分を見つける旅
吉江
私は戦中派でしょ。学徒動員で三鷹の中島飛行機〔註6〕で働いていて、そこが爆撃を受けて八王子に移転しました。そこも爆撃を受けて…。その頃日本はこれで終わると思っていたから、アメリカ兵を一人でも殺して死のうと思っていたけれど、ある日、焼跡の工場に行くため荻窪の駅に行ったら、天皇らしい声がゴチャゴチャ言って、年上の人がわーっと泣き出したので、「どうしたのですか?」と聞いたんです。もう死ななくてよい。絵が描けると思うとうれしかったです。死ぬつもりで生きていた人は違う。私は一切名誉とか肩書きはいらない。戦争中に20歳くらいだった年代はこだわらない人が多いと思います。
絵はひとりひとりの地味な世界。明日の自分を見つける旅ですよね。次の新しい自分を探して。そう思って生きています。
F6号「マイ キッチンボード」
〔編集〕木村梨枝子 金谷ちぐさ
◆註
01|鳥羽郁代
女流画家協会会員。2012年逝去。
02|国画
公募団体国画創作協会の第二部は、名称を「国画会」と改め、1956年を第1回として発足した。
03|新制作
新制作協会1936年発足。猪熊弦一郎、脇田和、小磯良平等により結成された。
04|吉江新二
1919年-2016年 主体美術協会の創立に参加。日本人ならではの独自の抽象画を展開。
05|法人化
春陽会は春陽会は1984年社団法人春陽会として法人となり、2010年一般社団法人として認可されました。会の運営を担当する会員の労力削減、会の資料保管整備や、税制面での優遇、寄付行為の保証など、社会的な信用を得るためであったが、一番大きな目的は、会の構成人員の増加にともない、将来に向けて明確な組織の形を必要としたことがあげられる。それまで会員の持ち回りの事務所であったものを、固定的な事務所として四谷に開設したのもそのためである。
06|中島飛行機
1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機第二次世界大戦 終戦までは東洋 最大、世界有数の航空機メーカーであった。
このページの先頭へ
ナビゲーション
トップページ
TOP PAGE
春陽会100年の流れ
CONCEPT
データベース
春陽会に寄せて
EWS&FAQ
サイトのご利用について
COMPANY
お問い合わせ
RECRUI
バナースペース
年譜
データベース
論説
インタビュー
一般社団法人春陽会
〒102-0085
東京都千代田区六番町1番町一番館
TEL 03-6380-9145
FAX 03-6380-9145