佐藤淳子氏 塩谷よし子氏 塩谷よし子氏 に聞く
〔聞き手〕大石洋次郎 畠山昌子 木村梨枝子
向井康子
1959年 第36回春陽展初出品、平和展
1960年 第37回春陽展 地方展(名古屋・大阪)
童展(奨励賞)
1961年 童画父子展 富山県高岡市立美術館
1965年 第42回春陽会賞受賞(流木、浮木)
1987年 会員推挙
1992年 春陽会女流展(アル展)朝日ギャラリー
1993年 多摩春陽展出品。(第1回展 立川市)、以降青梅美術館にて10年間開催。
その間スケッチ展多数、出版社の挿絵などを手掛ける
個展:兜屋画廊、チャコット画廊、下村画廊、調布画廊、ギャラリー惣、光画廊等。
塩谷よし子
1982年 第59回春陽展初出品
1984年 ハマ展知事賞
1985年 サロンデボザール 運輸大臣賞
1987年 研究賞 ドルチ展、ジャパン大賞展出品
1989年 会員推挙
1992年 神奈川女流展協会賞
2009年 女流画家協会展 岡田節子賞 会員推挙
2010年 女流画家協会展上野の森美術館賞
2012年 女流画家協会展委員推挙
1995年 春陽展アル展出品
2014年 anter展
2015年 サロンドエス記念展
個展、グループ展:望月画廊 、ARK銀座、スルガ台画廊 、セイコウドウ画廊など。
佐藤淳子
1973年 第50回春陽展初入選(以降毎年出品)。
1984年 第61回春陽展で研究賞受賞。
第18回文化庁現代美術選抜展出品。
1985年 春陽会準会員推挙。
1988〜91年 渡米、シカゴに住む。
1991年 春陽会会員推挙。
2007年 第84回春陽展で中川一政賞受賞。
≪主な個展≫
1994、1997年 みゆき画廊(銀座)。
2000年 ARTBOX画廊(銀座)。
2001年 阪急百貨店(神戸)。
2002年 藤崎画廊(仙台)
2003年 光画廊(銀座)。
2006年 井上画廊(銀座)。
2013年 GALELLY125(鎌倉)。
≪主な収蔵先≫
八戸市美術館、Precious Memoriy Inc(シカゴ)、栗田商会、韮崎市立大村美術館など。
2018年11月18日 鎌倉市小町 喫茶店「井川」
■アーカイブインタビューについて
佐藤 以前、越智雄二先生(春陽会会員)のお宅に伺った時にこの喫茶店(鎌倉市 「井川」)に来たことがあるの。春陽会に入って初めの頃、ここでお茶飲んで行きましょうということで。お隣が前田舜敏先生(春陽会会員)のお宅で、イタリアに行っている時ずっと空き家でした。女子美の人達や花房このみさん(元春陽会会員)達が風入れにいらしていました。
大石 ではそろそろ。アーカイブインタビューは4、5年前からやっています。高岸まなぶさん(春陽会会員)が中心になって、アーカイブで何かやろうということになり、最初は三井さんから始まりました。今まで15、16人程やってきました。僕が春陽会に若くして入ったので、古い会員をみんな知っているのです。そんなわけで「大石さんがいる」、というような事でこの企画が始まりました。三井さんをやって、笠木さんをやって、笠木さんは亡くなりましたね。幸田さんもやりまして、今関さん、この方も亡くなりました。これは反対もあったが、吉江さんもやりました。齋藤カオルさん、小坂さん、田中康夫さん、岩浪さん、岸さん、長森さん、ヨハネス・アイトさん、飯田さん、松下さん。飯田さん、松下さんも亡くなりましたけど。と武田さん、山中さん、このお二人は近いので二人一緒にやりました。この企画は名古屋、大阪でも何人かやってもらっていますが、本当に残念だと思うのは、関頼武さん(春陽会会員)に生前お話を聞けなかったことです。あとは沓掛利通さん(春陽会会員)。先週沓掛さんの展覧会に長野八十二銀行に行ってきたのですが、ものすごく良かった。
佐籐 あの雪景色の、旅館をやっているお宅。
大石 そう沓掛温泉の旅館です。あと大庭勝郎さん(春陽会会員)とか亡くなられてしまい、残念だなと思います。
佐籐 若いころ亡くなって、私が入った頃でした。
大石 今回は3人にお願いして、何の話でも良いので。 春陽会に関する事じゃなくてもいいし。
■神奈川の三人
向井 春陽会に入って59年たちました。 私、春陽会しか出してないと思っていたのですが、資料調べてみたら、女流展や一水会や平和美術展に出していました。在学中か、卒業してから結婚までの間に出品して、それから23歳の時に結婚しました。春陽会初出品は59年で、50号60号位の作品が4点入選しました。毎年出品していると思って資料を見たら40回、63年に不出品。春陽会賞が1965年。初入選から6年後です。その明くる年が準会員推挙。それから会員になるまでが長い道のりでした。会員になったのが87年、21年後です。皆さん長い長いっておっしゃいますけど、私も長かった。多摩春陽展というのがあって、10年ぐらい続けました。それから朝日ギャラリーでの女流展、アル展。それで1960年の春陽会地方展出品と書いてあります。そのころ私会員にも何にもなっていないのに出品していたのですね。地方展というのは、どことどこがあったか分からないけれど。名古屋とか大阪でしょ。それ発見してびっくりしました。
大石 名古屋、大阪の方であったと思います
向井 父が絵本作家〔註1〕だったので、その関係で童画展にも出していました。父親との父子展、親子展を富山の高岡美術館でやったことがあります。その時に中谷先生の言葉をパンフレットに頂きました。共産党系の平和美術展にも出していましたが、その時中谷泰先生の絵を好きになり、それで春陽会に出すようになりました。中谷先生の影響か、材料、モチーフが錆びついたような絵が多かったですね。土管を描いたり、京浜工業地帯に取材に行ったり。主人が亡くなってからは、外国にモチーフを求めて、淡彩スケッチ展を何回もやり、児童図書や詩集とか教科書、月刊誌の挿絵を随分描きました。
大石 昔は挿絵って言いましたよね。今はカットだなんだと言っているけれど、挿絵というのはとても響きが良くて。
向井 装丁、挿絵。
大石 中川さんにしたってみんな売れなくて挿絵で食っていました。
向井 そうですよ。
大石 それは春陽会の良いところだと思うのだけれど、昔は墨絵とか版画も、絵画と一緒に展示されました。第一期、第二期の洋行帰りの人たちが、大半はやめてしまいましたが、春陽会に入って、挿絵など出品しています。向こうにいた頃は面白い会があるみたいよ、と入ったけど全然外国ナイズされていない、東洋なんですよね、その辺が春陽会。
佐藤 向井さんのモチーフはどこですか?石の遺跡?イギリス?
向井 ストーンヘンジ。 あんな大きな物を描いて。
塩谷 私は神奈川春陽会ですが、今はお亡くなりになった会員の先生方との交わりの中でいろいろな話がありますよ。越智先生が鳥海青児の話をよくご存知で、「皆さんはこういう話を知らないでしょう。僕も先が短いですから、ちょっと面白いので話しておくね。」なんておっしゃって。
大石 原田さんが、出版した本(「鳥海青児 絵を耕す」せりか書房 2015年 原田光著)の中に書いていますが、他の会から春陽会に来られて、 違うところに行ったけど、ほっといたら鳥海青児はずっと春陽会にいたんですよ。それから萬鐵五郎、あの辺春陽会にいたんですよ。
佐藤 越智先生が言われたっていう鳥海青児の話とても興味がある。
塩谷 面白かった。鳥海青児が春陽会に出品した時、皆驚いたそうです。春陽会の絵の傾向ってあるじゃないですか。それとは全然異質なものをお出しになったので、皆盛り上がったらしいのです。そして賞をいろいろ取られたらしいです。そうしたらこれから会員になろうという人達が皆影響を受けて、鳥海青児に似ている絵を描き出して問題になったそうです。そんなこともあって独立に移られたという事です。
向井 2年ぐらいいらしたの?
大石 いやいやもっと長く(第2回展初出品〜第20回展退会)。
佐藤 そのお話、越智先生からいつ頃聞いたの?
塩谷 越智先生が亡くなる前に入院なさったの。わりと長期。鎌倉じゃなくて、長期入院の温泉付きの療養施設。そこにお見舞いに伺ったの。もちろん春陽会の方の連れがいましたけど。
向井 それから言い出したの?各人主義、個人主義?
大石 各人主義と個人主義とは全然違うと思う。なんで各人主義が出来たのか、各人主義っていうのはどういう事なのか、というのを原田さんや土方さん(土方明司 美術評論家)が、講演会で話します。皆考え方が違う感じ、簡単に言ったらそういうことですよね。原田さんは萬鉄五郎や鳥海青児が好きで、原田さんに言わせると鳥海は春陽会が大好きだったそうです。萬の作品には、赤とか青の絵とかあるでしょ、あれ現代の人すごく好きなんだそうです 。それをもっと前面に出そう、という話を昨日していました。
佐藤 私が春陽会の神奈川研究会に入ったのは、伊勢崎町の有隣堂書店で神奈川春陽会の小品展があって、そこに「研究会あります」、って貼ってあったの。私、田舎に春陽会の人がいて、もうやめた方ですけど、その人の絵がわりと好きでした。それで春陽会に良いイメージを持っていたので、どんな研究会だろうと思って。その時はもう結婚していて仕事も辞めていました。結婚前は教師をしていたのですが、やめて横浜に来て主婦をしていて、絵をもう少し本気でやろうかなと思い、6号位の絵を持って行ったんです。そこですごく良い批評をもらって、結構親切な方達がいっぱいいて、最初のころは本展に出す気など無かったのですが、結局出すような感じになって行きました。研究会には大御所の先生たちが大勢いらしていたのですけれど、なんとなくどなたか一人の先生に付いた方がいいかなという事で、水島健さんという芸大を出た方で事務所で書記やっていらしたかたに、先生に付いた方がいいでしょうか、と聞きました。その時越智先生と田代(田代利夫。春陽会会員)先生が双璧だったのですが、水島さんは越智先生を紹介してくださいました。越智先生の御宅が比較的近いので、車に絵を積んで持っていったりしましたね。
塩谷 越智先生から、佐藤さんの指導してる、とうかがっています。
佐藤 ええ何回か持って行きましたね。そのうち、たまたま引っ越しをして、女子美の茅ヶ崎校の近くに住みました。同窓会に行ったら助手の人から、新制作の人なのですが、近くに住んでいるのだったら茅ヶ崎校に絵を持っていらっしゃいよ、と言われました。越智先生からも、あなた女子美だから良いんじゃないですか、とおっしゃっていただき、入江先生(入江観 春陽会会員)の処、茅ヶ崎校が車で20分ぐらいの所だったから、そちらへ今持っていくようになりました。
越智先生は中川賞とった時に、やあ良くやった、なんて喜んで下さって。恩返しができたかな。時々リンゴを送ってきました、なんて車で持っていったりした帰りにコーヒー飲んで行きましょう、ということになってここに寄った事もありました。私は神奈川で先生に恵まれたと思います。
向井 私は中谷先生の絵は好きだったけど、別に弟子入りしたわけでもなく、そういう先生との関係は無かったです
■才能を育てる
佐藤 私、今年珍しく団体展を見ました。最近は見ていなかったのですが、独立と新制作を見た時には、春陽会は感覚が斬新で自由な絵があると思いましたね。他の会の人達は確かに技量もあるし、大作もあるし驚くようなのもあるのですが、感性っていうかそういうものをちゃんと拾って育てるという感じがしない。ひいき眼みたいなのですけれど、そう思いました。
大石 私もそう思う。
佐藤 確かに大作で300号とか並んでいるのだけれどね。
大石 僕もベストセレクション展に出品して作品を見た時に、春陽会はちゃんと描いているって感じがしていいなと思いました。もう一つは、終わった後に懇親会になるでしょ。入江さん、武田さん(武田百合子 春陽会会員)も皆来てくれて、おめでとうって言ってくれる。
佐藤 このところ若い人たちを第1室に展示してすごく前面に出しているでしょ。えっと思うような感覚の絵もあるじゃない。技量が云々と言う事ではなく、感性だと思うんです。それをちゃんとキャッチして、埋もれさせないようにして世に出す。その人はすごい売れっ子になって。春陽会は上手く育てたなと思います。潰さないっていうか、技術的な事がどうとか、デッサン力がどう、構図がどうとかじゃなくて。春陽会はそういう感性を大事にしている会だなって思っているんです。
塩谷 ただ公募展という形のものは日本独特の物なのよ。海外の人はあんなに団体があるっていう事自体、もうびっくりしてね。ヨーロッパも、アメリカもそうですけれど、まあそれらしきものはあっても、日本のようなこういうシステムはないですよね。
大石 春陽会は賞を決める時、会員全員が審査員やるでしょ。出品作品の中には自分の考えと全然違う人もいるわけだけれど、ちゃんと見るから、ちゃんとした人が出る、そういうのが良いなと思います。
佐藤 すごくフェアな会ですよね。理事も選挙で、賞を決める人達〔註2〕も選挙で決まるでしょ。他の会では権力を持っている人がこれとこれだとか言って、そういう話も聞きますけれど。
■春陽会あの人この人
木村 会の中での親交とか、研究会での交友ですとか、そんなエピソードなどお話いただけますか。
佐藤 この間亡くなられた木本恵子さん(春陽会会友)は、お歳は入江先生や前田先生と一緒で、女子美から芸大の油に行って、相当なキャリアのある方でしたが、出し始めがとても遅く、自分のペースでやっていた方なんです。去年は入退院をくり返していましたが、お正月に家に帰ってすぐ100号のキャンバスを張ったのだそうです。正月明けに神奈川春陽展があって、出品されたのですが、キャンバスの張りが緩いのでダバダバしていました。お孫さんを描いて、未完成で出されたのですけれど、とっても良い絵でした。本当に真剣でした。
大石 本当はアーカイブインタビューで会友の人をやりたいのです。けれど、ああいいなあと思った人たちは皆お亡くなりになったり、会員になる前にやめちゃっていたりで実現していません。本当は春陽会語るには古い会友の人の話を聞きたいのです。木本さんは五十嵐美代子さん(春陽会会員)と同じ年だと思います。
塩谷 今五十嵐さんは病院に入っていて。だからもうちょっと早く、五十嵐さんもインタビューして下されば良かったと思います。新作は描いてないんですけれど、過去の作品を発表するのも全部御嬢さんがやっていらっしゃるから。でも今年はもうお出しにはならないのじゃないかな、と思います。
佐藤 去年の研究会展の時に車椅子でいらしていたでしょ。
向井 おいくつかしら
塩谷 86、7
大石 五十嵐さんはご夫婦で良く歩かれていました。俺、勤め先の幼稚園の女性の先生と二人で、渋谷の駅に居たら、「どういう関係?」って言われました。
向井 すぐ調査が入るから。(笑)
大石 人が大勢いる所で、大きな声で聞かれて。いやー、どう言っていいのか分からなかったな。
塩谷 すごく詳しかったわ。なんでもあの方に聞けばご存知。美人だし。
佐藤 私、神奈川の研究会に入った時、何て素敵な方なのだろうと思いました。センスが良くて、素敵な絵を描いていて。
大石 ご主人は宮城音蔵(春陽会会員1921〜2004)さんと同級生なんです。
塩谷 又ご主人が良い方でね。
大石 絵画の先生だったですよね。静岡に狩野幹夫さんという方が居ました。最近賞をとりましたが、亡くなりました。良い仕事だったなと思っています。
佐藤 一回個展やったでしょ。どういう方だか興味があって行きました。
大石 ご親戚が東京の研究会にいて、狩野美也子さん(春陽会会友 現在会員)。
畠山 姪子さんなのではないですか
大石 この間調べたのですが、美風会?あの展覧会の受付の女性が属する会。それももう無いようです。だからアーカイブをやるとしたら会員の人しかいないわけ。本当はもっと広くやりたかったのですが、会友でどなたかおられたら教えてください。そういう事も含めて会員だとか会員じゃないとか関係ないんです。そういう人全部で春陽会は成り立っていると思っていますので。
佐藤 木本さんなんか本当にインタビューしておけば良かったのかもしれませんね。
大石 今のところ会員だけでいっぱいいっぱいなのですが、会友の方でいいなっていう人とは、是非やりたいと思っています。
畠山 神奈川の研究会は今どのくらい研究生がいるのですか?
佐藤 70人位?
塩谷 えっ、そんなに居るの?名簿上ではね。来られない方も多くいらっしゃるから。
大石 春陽会研究会は昔から神奈川とか、東京だけではなく、名古屋にもあって、東京は五味秀夫さん(春陽会会員)はじめすごい人たちが揃っていました。あの頃は僕も29か30歳位だったかな。お手伝いしていました。批評会でつまらない絵が出てくると講師がみんな横向いて知らん顔して黙っちゃう。そのうちに、研究生がぱっと立って「帰ります。頑張ってきます。」って言って帰る。そんなことが良くありました。入江先生が初めて絵を持っていった時には、五味さんが一切口をきかなかったということですよ。
塩谷 そういう先生が多かったみたいですね。
大石 山崎貴夫(春陽会会員)さんが講師の時は、本気で帰れ―って言っていましたよ。
塩谷 山崎さんはすごくはっきりしていて私人間的に好きだったわ。とってもユニークな方で、本音の方ですよ。
大石 僕も好きですよ。
塩谷 本当にあの先生好きだった。正直な方っていうんですか、
佐藤 大石さんもすごい血気盛んで、山崎さんともう喧嘩のように、さっきの絵が落選ならこれも落選だ、表に出ようとか。
塩谷 そう、むきになっているのよ、面白かったわ。
佐藤 かっかしてね。山崎さんは本当はお坊ちゃまなんだけど、割と無頼な感じでね、
大石 お坊ちゃまの逆。そういう人がいっぱいいたでしょ?旧都美館の事務所では皆が通路の横で酒を飲んでいる感じでした。脇を通って行くと、僕はまだ一般出品者だったけど、お前名前何て言うんだ、って放り込まれて酒飲もうって。そんな感じでした。今は会場で酒を飲めないせいもあるのだけど、昔は先生って距離はあったんだけど...。
大石 舜敏さん呼んできてくれない?
塩谷 最初からお呼びしないのが良いのね。
大石 先生のワンマンショーになっちゃうから。山崎さんと言えば、前田舜敏先生(春陽会会員)はよく家に人をいっぱい呼んで、その縁で山崎貴夫さんと山本久美子(春陽会会員)さんはその後結婚したんです。
塩谷 それはおめでたいお話。山本さん今はどうされているのかしら?
佐藤 ぴか一ですよね、あの方。山崎さんの看病をして。その後武田百合子さん(春陽会会員)が春陽会に復帰しないかって、皆で声をかけたのだけれど、そんな気ないということでした。長田久子(春陽会会員)さんどうしていらっしゃるかしら。よく出品する直前まで絵に手を入れていて、今年も壊しちゃったとか、気に入らないから出さないとか言っていらした。山本さんが辞めたから、長田さんもなんとなくやる気なくなったのかしら。
向井さんはスケッチ旅行とか良くなさったでしょ。向井さんのスケッチは素晴らしい。かなり仕事をして発表なさっていたでしょ?
向井 やはり父親の影響がありますね。父の美術館が富山と、中軽井沢にあって、夏と5月の連休に開けています。
佐藤 私設美術館。
向井 10畳ぐらいの小さなギャラリーがあります。一度お連れしようと思ったけど。
塩谷 あの、富山の方にうかがった時ね。いろんな過去の作品がいっぱいあったわね
佐藤 前田先生良く、鎌倉に来たら寄りなさいよ。ワインぐらいあるからっておっしゃるけど、そう急にはね。
■前田舜敏氏登場
前田 電話一つくれればいいのに、昼寝していたの。
向井 そうそうお昼寝の時間があったのだわ。ごめんなさい。
大石 そういえば横山了平(春陽会会員)さんすごく元気になられて。ちゃんと酒飲んでいるそうです。
佐藤 小宮さんのお葬式の後に、横山先生も一緒でお昼食べたのだけれど、昔よりずっとお元気。奥さまが施設に入って息子さんのご家族と一緒に住んでいらして、なんかふっくらして、自分からささっと誘ってお昼食べていきましょう、飲むところはないかな、なんて言っていました。
大石 東京研究会で講演してもらったの。
佐藤 構図のお話ね。
大石 加山四郎と山口薫の話。本当は加山さんに世話になったらしいのだけれど、絵は山口薫の方が好きだったんだよね。いやいや面白かったです。すごく。で、終わった後飲み会。
畠山 時間が足りないくらい、結構長い講演で、間に一寸休憩時間を入れました。
前田 学校の先生って話が上手いね。
塩谷 やっぱり馴れていらっしゃるのね。
大石 前田先生上手いよ。笑いをとる。前田先生と、横山さんと、入江さんと、もう一人に春陽会が講演してもらった事があるんです。その後上野の鰻屋さんに行って一緒に飲んで、素敵なお話ししてもらいました。その話が忘れられない。講演会の方は女子美の、美術評論家に講演してもらってその後の話です。本人達は芸大の頃の普通の話しているんだけど、俺とか西野とか笑いっぱなし、それをもう一回再現しようと思って。
塩谷 講演はどなたがなさったの?
前田 陰里かな(陰里鉄郎 美術評論家)
佐藤 横浜美術館の館長で亡くなった方。
前田 春陽会の歴史を、専門だから。彼が横山と一緒なんですよ。僕より一つ下でね。その辺住んでいたんですけれど、長谷部とかね、皆同級生。館長クラス。
大石 その話を昨日まとめました。司会をするという人が出てきて4人になりました。
前田 誰?
大石 土方定一さん(美術評論家)の息子、(土方明司氏 美術評論家)今平塚美術館の館長代理、に決まりました。
前田 一つ違いですよね、横山、太田、入江、松島、今関、戦後、僕なんかの上になると、もう戦中。 横浜の駅で手すり掴まって、いるな、とおもったら陰里だった。ああいう役職の人は毎晩飲む。宴会続きで飲みすぎですよ。
佐藤 松島先生もリタイアしてお家にいるようになったら足が弱って、週一回ぐらい銀座回るのだけれど、それだけじゃ駄目で、このごろは散歩しているから少し良くなったっておっしゃっていました。
大石 新宿の朝日カルチャーに教えに行っています。俺一回手伝ったの。いや大変。その教室絵の大きさが80、100号なんですよ。
前田 帰りに家に寄ってもらわないとね。
大石 また今度、本当に。
前田 一寸家片づけてくるから。飲み物はあったかな?
佐藤 奥さまに了解とっておかないとね、いきなりこんなぞろぞろ行ったら後で怒られちゃう。
前田 電話一つしてくれればね、ちゃんと用意しておくのに。

前田舜敏氏
向井 入口のお部屋は散らかってないでしょ、あそこはどう?
塩谷 隣がお馴染みの喫茶店で、ここを応接間がわりにすればいいんですよ。
前田 靴はいてくるから駅まで送るよ。
塩谷 先生スリッパでいらした。でもそれで十分よ。
結局この後全員で前田先生の御宅にうかがいワインをいただきました。
〔編集〕木村梨枝子 金谷ちぐさ
◆註
01|絵本作家
井口 文秀氏(1909年‐1992年)絵本作家、挿絵画家。太平洋画会研究所卒、国際アンデルセン賞国内賞、サンケイ児童出版文化賞などを受賞。児童文化功労者。代表作に「コーリャよはばたけ」こぞうのぶぶんが」がある。
02|賞を決める人たち
春陽会賞、奨励賞、会友賞は会員全員の投票で決めるが、中川、岡、南大路各賞とSONPO美術館賞は、選挙で選ばれた選考委員によって決定される。