本文へスキップ

美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

TEL. 03-6380-9145

〒102-0085 東京都千代田区六番町1番町一番館

アーカイブ インタビューINTERVIEW

幸田美枝(恵)子氏 に聞く 〔聞き手〕清水美三子 宮本典刀 大石洋次郎 金谷ちぐさ

1931(昭和6)年東京都に生れる。1955(昭和30)年(旧姓 松ノ谷美恵子で)研究賞を受賞。1958(昭和33)年第35回記念春陽会賞を受賞。1961(昭和36)年会員に推挙。1969(昭和44年4月から1971(昭和46)年まで、横山了平事務所の書記を務める。2024(令和6)年逝去。享年93。

2014年11月25日 於・幸田美枝子宅

■春陽会絵画部出品
幸田 私は東京生まれですが、父の勤めの関係で横須賀に行って終戦になりました。父は元軍人で戦後母方の祖父(元開業医)と一緒に伊東で農業をやっていましたが結局商売にならず、その後は横浜へ。伊東の高校の先生が中川一政の弟子の井上先生という方で、春陽会賞を受賞し(井上重生 1948年・第25回展)、その絵が校長室に飾ってありました。
高校を卒業して先生が春陽会研究所に連れて行ってくれました。当時研究所の入所には会員2名以上の推薦が必要でした。そのころは水道橋の工芸高校の教室を借りていて、その後、千田是也〔註1〕の劇場を借りていた時もありました。批評は中谷泰先生、南大路一先生で、厳しかったですよ。絵を持って行って批評してもらうのですが、木村先生と石井先生は批評ではなくお話をする。怖い先生方というより優しかった。木村先生の江戸から東京の話が面白くて・・・。上野(芸大)に落ちたので絵の勉強をするつもりで。一浪して多摩美に行きました。木村先生に女子美に行く相談に行ったら、「止めろ、不良になるからダメ」と言って多摩美を勧めてくれました。多摩美のことは知らなかった。牧野虎雄さんが建てた学校(多摩帝国美術学校)。願書など間に合わなかったがそれでも受けて良いと言われた。最近思ったのだけど木村先生が後押ししてくれたのかと・・・。その時は生徒がよっぽど少ないのかと思った。一年の時は伊東から通っていた。その後は東京の姉の所から。大学に行きながら研究所にも通っていました。
宮本 その頃一緒だったのは?
幸田 その頃は北岡文雄さんも生徒で、田中岑さんと伊藤善(春陽会会員)さんも。お2人はいつも一緒でおそろいのベレー帽をかぶって。
宮本 春陽会出品はいつごろですか?
幸田 研究所には勉強で通っていたので春陽展に出品するつもりはなかったのですが、先生たちのすすめで絵画作品を出しました。初出品は20歳の時(1951年・第28回展)、小品2点でした。油で5回出品しました。
宮本 同期は?
幸田 今関鷲人さん(19588年、一緒に春陽会賞受賞)、松島治基さんはちょっとあとかも……。
大石 その時版画部はなかったのですか?
幸田 はい。版画を出している人はいましたが。
*昭和3年・第6回展で「版画室」設置。昭和27年・第29回展から版画部独自の審査が始まる。

■「友人」、石井鶴三先生
清水 どの先生の批評がグッときましたか? 褒められた思い出は?
幸田 けなされたことはあっても納得していたから。石井先生はまじめで加減しない方。
清水 どの人も分け隔てなく、ですね。石井先生の批評で大事にされたことは?
幸田 まじめな方。とにかくスケッチがすごい。スケッチ帳が山のようにあって、動くものの形態をパッとつかんで。
大石 相撲など瞬間的につかみますよね。
(手紙、色紙、写真……。石井鶴三の色紙が出てくる)


石井鶴三先生からいただいた色紙 面「昭和四十四年四月二十二日」

幸田 事務所をやっている時(1969〜71年 横山了平事務所の折、書記)。色紙の絵は自分(石井鶴三)自身、若者を投げ飛ばしている絵です。
「老いたれど わかきにまじりて あるらしき どへう(土俵)にのぼり すまひ(相撲)とりてむ」。
 私は相撲が好きで、版画部に入ってから石井先生に時津風部屋の出稽古に連れて行ってもらいました。双葉山がまん中に坐っていた。石井先生は私のことを「友人です」と紹介するのよ。そしたら双葉山に丁寧に挨拶をされました。石井先生はいばらなくて、口先だけでない誠実な方で、「友人です。」とおっしゃると何かそんな気がしました。春陽会は劉生とか癖のある人が出ていってから皆仲がよかった。それぞれ個性があり、向いていること(得手、得意)があって。でも石井先生は事務的なことはダメで木村先生がやりました。て、お金がないことを皆必死で考えている最中に寝転がった石井先生が「まあなんとかなるさ」。ほっと和む。
 木村先生は事務能力があり、石井先生は春陽会賞などの賞札を書いていました。加山四郎さんは毒舌で、お嬢さん呼ばわりされましたが、批評のあとで謝ってくれてキャラメルを一つくださいました。

版画部審査の日

右手前から前田藤四郎、幸田美枝子、小林ドンゲ、石井鶴三、後ろ向き北岡文雄、馬場檮男、三井永一

右手前から清宮質文、馬場檮男、武田健夫、甲斐サチ、手前小林ドンゲ、幸田美枝子、手前石井鶴三、丹阿弥丹波子

■春陽会版画部へ

金谷 版画への転向のきっかけは?
幸田 版画部ができた時、20人位いましたが、私もやってみたいと言ったら、それを北岡さんが駒井さんに言って、駒井さんが「来い」と。
宮本 版画女性会員第1号ですよね。
幸田 小林ドンゲさんの方が先ですが、出産でお休みしていたから。
清水 ドンゲさんはライバル?
幸田 先輩と思っています。
清水 女性会員でやりにくかったことは?
幸田 数が少なかったからからね。
宮本 女性は小川マリさんくらいでしたか?
幸田 女性は小川マリさん、野村千春さん。吉江麗子さんとかいらしたけれど、話していても私は入って行けず、壁にひっついて……。後から話したら皆さん優しくて、私がしゃべらないものだから。
清水 版画部ができた当時、春陽会が他の会と違っていたことは?
幸田 国画とは特徴を別にしようと。
清水 国画には棟方志功がいて土着的なところがありました。春陽会は洗練された世界にしようと。中心になったのは駒井、北岡?
幸田 駒井さんは岡先生に取り上げられていました。
宮本 当時の版画部審査は?
幸田 意見を交わしながら。人の運命を決めるのは気が咎めます。


第40回展 招待日 受付
右から幸田美枝子、関 頼武、前田舜敏、大庭勝郎、横山了平、小柳秀太郎

■駒井哲郎

清水 春陽会で一番影響を受けたのは?
幸田 駒井先生。高校では井上重生先生。
清水 駒井先生に習いに行ったの?
幸田 年中行っていた。南大路さんに、「なんで版画に行ったの?」と言われました。版画部は人を増やしたかった。私は考える前に先に賞をもらってしまった。版画が分かれたので版画だけの審査をしていましたが、駒井先生が出した頃は絵画と一緒でした(駒井哲郎は、昭和25年・第27回展に《孤独な鳥》他を出品し春陽会賞を受賞)。部屋が増えたかもしれません。始めて1年くらいの時、刷るのを手伝うから出品するようにと言われて、小さな絵でしたがいきなり受賞して・・・。研究賞は結婚前(昭和30年・第32回展)、旧姓は松ノ谷。春陽会賞は30回展。版画で受賞。小さい絵でした。
宮本 駒井先生の所へ行っていた時ドンゲさんは?
幸田 ドンゲさんは友達。
清水 駒井先生には週1回?それで習いに行きましたが、3人くらいしか入れない狭いアトリエで教わりました。
清水 駒井先生には週1回?
幸田 そうです。私は対人恐怖症なので、批評させられそうになって、ダメなの。だから先生ではないの、先に生まれたけど。

■春陽会という会
幸田 甘やかされて育ったから春陽会じゃなければ居られませんでした。多摩美でも女の人は少なかったので先生たちは大事にしてくれたけれど私は気が小さいからまともにやれる人間ではない。
大石 自分が若いころ、懇親会にはいろいろな先生がいて、この空気を吸っているだけでうれしかった。受賞の時は岡さんと、準会員の時は中川一政さん、会員の時は岡さんと握手でした。
幸田 初入選の時、先生方が「おめでとうございます」と挨拶をして下さった。
大石 藤井令太郎先生も厳しかった。絵がよくないと誰もしゃべらない。緊張感がありました。今はまるで父兄会。当時は研究生にも自覚がありました。
宮本 長谷川潔の思い出は?
幸田 長谷川先生は日本に帰って来られないし、私は日本から出ていないし。長谷川、清宮、駒井先生の作品を買いたかったが、おこがましくて言えませんでした。
 (所蔵の五味秀夫氏の作品を見て)
 五味さんは学徒動員で海軍航空隊だったから死を覚悟していらした。防人だったわけ。
 五味先生とのお付き合いは春陽会に入ってから。私は草食系で内気だったから、個人的には近寄らないようにしていました。親しく付き合ったのは御病気になられてずいぶん後になってからでした。
清水 春陽会は変わったと思うことがありますか?
幸田 昔は絵が小さかった。私はもともと大きな油絵が手に負えなかったから版画。
 絵画部も同じだと思うけど。昔は人数が少なかったので、事務所の時は名前を全部覚えていました。
大石 辞めようと思ったことは?
幸田 私は個展など、体力的に出来ないし。
清水 他の会と較べたりしませんでしたか?
幸田 横山事務所の折の書記の時など、国画の人が挨拶に来て春陽会に移りたいと言っていました。春陽会はお互い悪口がないのがいい。
大石 昔の人はガツガツしていなかった。戦争画も描いていない。その中で自分もかわいがられて育ってきました。
清水 草創期、皆、大人だったのですね。
幸田 だから私は運がよかったのです。春陽会は派閥争いとかしてほしくない。
清水 それぞれ自己研鑽をする。
幸田 お互い認めているんでしょうね。
金谷 お互い成長していこうという姿勢ですね。

■作品は自画像
宮本 メゾチントの目立てはご自身で?
幸田 途中までは中西さん、最終的には私。かえってつぶしたり、やり直して失敗したり、目つきはしていません。よくないですよ、すぐ減るから。
大石 毎年またいい絵を見せてください。
幸田 今、二つやり始めています。今まで春陽展を一度も休んだことがないの。
金谷 作品の中には人間が出てきますが人間に思い入れがありますか?
幸田 自分と思って見られても困るけれど、全部自画像みたいなもの。今年出品した《八月十五日の焚火》という絵は昔、機密図書係をしていて暗号文を扱っていた時の事です。書庫にあった文書を8月15日に燃やしました。私はその2日前に父親から日本が負けることを聞いていました。その時さんざん泣いたので15日はただ呆然と見ていました。
 私は具象しか描けないから具象を描いていていますが、抽象が好きで、いいものはいい。描く時は、構図は気になります。具象だからかもしれないけど。一番大事なのはその人だけのもの。その人が出ていれば。個性が一番大事な気がします。

陳列後の記者招待日石井鶴三と談笑する幸田美枝子。手前 前かがみ加山四郎

〔編集〕木村梨枝子 金谷ちぐさ

◆註
01|千田是也
1904年‐1994年、演出家、俳優。俳優座を創立、代表を務めた。兄は伊藤熹朔(舞台美術家 春陽会会員)姉暢子は中川一政の妻

バナースペース

一般社団法人春陽会

〒102-0085
東京都千代田区六番町1番町一番館

TEL 03-6380-9145
FAX 03-6380-9145