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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

TEL. 03-6380-9145

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アーカイブ インタビューINTERVIEW

今関鷲人氏 に聞く 〔聞き手〕大石洋次郎 金谷ちぐさ

1936(昭和11)年 画家・今関啓司の三男として東京都に生れる。1951(昭和26)年15歳で初めての個展を開催。1954(昭和29)第31回春陽展に初入選。1958(昭和33)年第35回春陽展で35回記念春陽会賞を受賞。1963(昭和38)年春陽会絵画部会員に推挙。2018(平成30)年逝去。享年82。2019(平成31)年「今関鷲人遺作展」(4月12日〜20日 東邦アート)が開催された。

2014年5月20日 於・池之端 藪そば

■子供の日々
今関 房総の(長生郡)長南町出身で、長南には父啓司〔註1〕の生まれた地という碑が建っています。今関家はケタ違いの金持で、江戸の終わりまでは男は働かずに食べていけたそうで、昔は公家がお金を借りに来るような家でした。今関家の裕福なことは、古文書にも出てきますが、父の代からガタっと変わりました。亡くなったのは私が10歳の時で、生涯家を持てなかった父は当時どこかの2階を借りて畳の部屋で絵を描いていました。私は父が亡くなる間際に猛烈に絵を描くようになりました。『画家今関啓司の日記』にもあるが、絵を父の枕元に持っていくと、出来が良いとうなずくが悪いと横を向いてしまう。何としてもうなずかせようと一生懸命描いたものです。父の死後母と東京で暮らしていましたが、そのころ梅原先生〔註2〕のところに連れられて、小3くらいの時に絵を見てもらいました。朝日新聞記者が来て記事にもなり、梅原先生には留学の時には推薦状も書いてもらいました。
金谷 色々な人が推薦状を書いてくれていますね。梅原、武蔵美、岡鹿之助。 
大石 夫と息子が絵描きだったという母上の理解度はどうでしたか?
今関 母(静)は本当の絵描きは亭主しかいないと思っていました。子供なんか絵描きとしてはダメ。

■若き日の旅
今関 フランスには8ヵ月行っていましたが学校には行かず、友人が「今関君学校へ行け。モーリス・ブリアンション教室にはもう席が無いよ」と説得してくれたのだが、行かなくてもいいと思い行きませんでした。
 文化財保護委員会から派遣された日本古建築の先生が、ヨーロッパを2ヵ月回るというので、その助手をやりました。この旅行は最高の宝となりました。
 先生は「君は日本の美術は見ているか。桂離宮を見ましたか?是非とも見てください。私は自分の国の木の建築は引けを取らないと自分に言い聞かせているのです。」そんな会話が毎日でした。そして写生。
 先生とイタリアに行った時、チヴィタベッキアの教会(日本聖殉教者教会)で長谷川路可〔註3〕が26聖人の壁画を描いていたので会いに行きましたが、湯呑み茶わんが二つしかなく欠けた茶碗で我慢してくれといわれました。切羽詰まった生活をしていたんだね。フレスコで苦戦した話をしてくれて、イタリア人は絶対フレスコの奥儀を教えてくれない。ある時裏庭にレモンの皮が積んであるのを見つけ、フレスコの溶液にレモンを使う方法を探ったそうです。
 高田力蔵の息子、あれはあっぱれだったが、菓子修行に来ていて同じ部屋だったので友達になりました。ある時、長谷川潔の所に行くが一緒に行くか? と言われデッサンを持ってついて行き、長谷川潔にデッサンを見てもらいました。見て、ふっといなくなったと思ったら、春画の浮世絵を持って来て見せてくれました。これらはもっと沢山あったが、皆取られてしまいました、マチス、デュフィ、ピカソ・・・。「こんなところでぼっとしている場合じゃないよ、早く帰ってこれを見て、仇を取ってくれよ」と、面白い先生でした。長谷川は春陽会に出品していました。
 藤田嗣治にも会いましたが、藤田は友人の父の同級生で、その時もデッサンを持っていきましたが、こちらの顔も見ないでパラパラとめくり、次の話にいってしまいました。何をしろとも、頑張れとも言ってくれない、無視でした。みごとに一言も言わず・・・ 

■父のいた時代
今関 父が春陽会に入ったいきさつを、会に育った人間として話したい。放菴と大観が再興日本美術院を作ろうとしました。山本鼎も意見が一致して参加。大観が狙っていたのは岡倉天心だったが、天心は病気で大正2年に50歳8ヵ月で亡くなりました。その後放菴と大観が研究会を作ろうと頑張り、6人が1人20枚ずつ絵を描き、1枚25円で売りました。大観と放菴が2人で部屋を借りて頑張り、その後土地を買ったのが上野の芸術院の場所。理想は日本画、洋画、彫刻が自由に交流し刺激を受け合うことでした。
―『画家今関啓司の日記』 (大正11年3月25日)を開いて読む
《(略)二十五日の夕五時、神田小川町多加羅亭へ春陽会懇話会に参会(略)。木村といふ男はさはやかな、そうだ清流の如き感をもたせる。都会人だ。椿〔註4〕にもはぢめて、黒がねを想はせる。岸田といふ男は敬遠させた。倉田氏〔註5〕は別な感ぢだ。淋しさを起させた気持ちのいい人だった。まえに一、二度顔見たことはあったが諸氏にははぢめて会ったわけだ。記すべきこと印象は、も、薄れた。すこしギコチなかったことだ。(略)》
 父の感想が述べられている。会った時荘八にいい感情を持ったのだね。
梅原は初め春陽会にいましたが、連れてきた岸田劉生が自分勝手な人で自分の弟子しか入選させないような自信家でした。森田恒友が案を出し、岸田を特別会員にして審査に立ち会わないことにすると決めたが(自分も一緒に)、結局だんだん横柄になって放菴は困り、梅原は自分が岸田を連れてきたので、自分と一緒に春陽会を出るということになりました。そこから柔和な春陽会となり、皆一緒に頑張ってきました。梅原のおかげか。梅原はかしこかったから後に国画会を作りました。春陽会に残っていたら放菴と衝突したかもしれない。
金谷 春陽会発会の集まりに父上は何故欠席だったのですか?
今関 萬(鉄五郎)も欠席だったが、父は旅に出ていて体を壊し行けなかったのです。
 当時ヨーロッパ行きが流行って皆行きました。父も考えていたが金が無かったし、何より体力に自信が無かった。山崎省三も行きました。林倭衛を横浜に送りに行きわびしかったらしいです。春陽の創立会員は皆行っています。

■山ア省三のこと
今関 昭和10年、山本鼎は春陽会を去るが、山崎省三〔註6〕(今関氏の母親と山崎省三は父親違いの兄妹)も山本の弟子格だったので一緒に退会しました。父は夜を徹して辞めないよう説得しています。山崎は美術院の研究生で、そこで父の友人となったのだが、同じ研究生に村山槐多(かいた) 〔註7〕がいました。村山は山本鼎のいとこで京都の秀才。東京では放菴の所に住んでいました。村山の死因は結核ではなくかぜをこじらした肺炎で、最期は布団から抜け出して、どこかの畑で泥んこになって死んでいたそうです。父たちが捜しに行って発見し、マントにくるんで連れて帰りました。凄まじい青年期を過ごした村山と、山崎は同い年で、父は3歳年上だったが気が合い、3人は院展3銃士と呼ばれたエリートでした。しかしお互い金が無い。山本鼎の知り合いの、清水汽船他数社を経営する実業家・清水賞太郎から、村山、山ア、今関啓司の3人に奨学金(毎月30円ずつ)が支給されていました。父と村山とのつながりは、ずいぶん後になって村山について本を書いた草野心平〔註8〕(『村山槐多』 日動出版 1976年)から話を聞いたものです。
 山ア省三の姉の孫が、大叔父さんが亡くなったハノイの陸軍病院を訪ねてみると、記録が残っていたそうです。重症なのに日本まで2000キロを歩いて帰ると何度も脱出し、それがたたって49歳で亡くなりました。家族は疎開しましたが空襲で東京のアトリエが焼けてしまったので作品がほとんど残っていません。春陽展80周年で日光(小杉放菴記念日光美術館)に並べた絵は奇跡的に残った絵で、あるとは思いませんでした。
 その姉が大事にしていた山崎省三の絵があるということで後日見せてもらいましたが、0(ゼロ)号のバラの絵で横須賀(美術館)での山崎省三展(「山ア省三・村山槐多とその時代」展 2013年)に出た絵でした。

■先輩たちの思い出
今関 先輩たちのことを思い出すよね。
 三雲先生は、母親が危篤の時にマジョルカから帰国し、その後は国展に出品していたが、銀座で個展をして、(1942年 青樹社)、それを見た岡鹿之助がすごい絵描きがいるので仲間に入れたいと小杉放菴、中川一政、木村荘八、加山四郎、小柳正に連絡。都美術館の階段の下で作品を見ることになりました。三雲は馬車に作品を積んできたが、作品の良さはその場で見て分かり、荷物を返し、一杯やりましょう、会に加わってほしいということになりました。
 60周年の時には第1回の出品作を並べたいということで(物故会員作品特別陳列)、父の第1回出品作品、8号の絵(《水辺初夏》 1922年作)を出すことになりました。三雲先生を埼玉の展覧会に連れて行った折、家に寄ってもらったのだが、その絵を見つけハッとそばに寄っていって見入っていきました。魂と自然の表現だと興奮していました。三雲先生はパッとした感受性が人一倍鋭敏な人で、変な絵だとパッと行ってしまう。怖い人でした。見透かされてしまうのです。
この店(池の端藪そば)は都美術館での展覧会の後よく来ました。事務所(昭和52年〜54年)の相棒の太田洋三(会計)が大酒飲みでね。2人で飲み終わった徳利がたくさん並んで・・・恥ずかしかったね。ここは奥村土牛も来た店である。
大石 春陽会で若い時にここに連れてきてもらい、こんな飲み方があるかとうれしかった。今はなかなか絵の話ができないので、今日は楽しい。先生お歳は?
今関 78歳になった。干支(えと)はねずみ。出品は春陽会しか考えなかった。兄は一高、東大だから金を稼いで欲しかったのに絵を描くと言いだした。まん中の兄は英語ができ学校の先生になったが絵はきらいだ。

■事務所時代
金谷 事務所をやっていた時の話をお願いします、何か大きな出来事がありましたか?
今関 岡鹿之助は子供がいないので財産を会の為に使って欲しい、会の為に役立ててくれと、その善意から賞を作ることになりました。そして会務委員六人が賞の選考委員となり賞を選んだらどうかと提案しました。それを猛烈に反対したのが宮田武彦(宮田自転車の御曹司)。そもそも春陽会は一対一である。会員が会員を推薦するとは何事かということでした。当時宮田さんに賛同する人が会に半分いて、その中には森田賢(東大赤門前の喫茶店「ルオー」店主)もいました。結束してしまい票がまとまらない。そういう時うまくさばくのは倉田三郎さんだが票数が変わらない。きわどいところで宮田一派が勝つと、そういういう事がありました。
大石 先生が事務所の時、岡鹿之助先生が亡くなられましたね(昭和53年4月28日)。その後中川先生が亡くなりました。(平成3年2月5日)。
今関 岡先生が亡くなられた時は、中川一政先生が葬儀委員長でした。その後中川先生が亡くなった時、天皇陛下から賜物が届いて、それを飾りました(文化勲章受章者なので)。石井鶴三先生が亡くなった時には(昭和48年3月17日)、五味さんが故人の好きだったこぶしの花を、今まだ咲いている秋田県まで取りに行き葬儀場に飾りました。皆喜んだ、あれはよかったね。

■今関父子
今関 春陽会50周年の時〔註9〕、父の40号の(《浅春山路》 千葉県立美術館蔵)を出品しました。ウインドウに飾られた絵を見て小川マリさんが「これは国宝よ」、三雲先生は「すごい絵だ、おやじさんはケタが違うよ。君はよっぽど頑張らねばダメだよ」と言われ、それから父に対しコンプレックスを持つようになりました。
 いつだったか受賞した時、放菴先生には「親父に良く似ているね」と言われ、南大路さんからは「顔のことじゃないぞ」。「はいわかりました」と。次は荘八の祝辞で「僕は猫の親子は見分けがつくが、今関親子はわからなかった」と言われたものです。


第93回春陽会展出品作品


若き日の今関氏

〔編集〕木村梨枝子 金谷ちぐさ

◆註
01|今関啓司
1893年-1946年 大正五年の第三回再興日本美術院展に《山(北アルプス)》、《風景》を出品し、日本画の川端龍子、彫刻の中原悌二郎とともに樗牛賞を受賞。その後春陽会創設に客員として参加。《山(北アルプス)》は五十号のアルプスの絵。この絵は細川コレクションにあるかもしれないが行方が分からない。

02|梅原龍三郎
1888年-1986年 洋画家 春陽会創設会員。その後岸田劉生と共に退会。

03|長谷川路可
19897年-1967 日本のフレスコ・モザイク壁画のパイオニア。イタリア、チヴィタヴェッキア市の日本聖殉教者教会内壁画(フレスコ画)を制作し、国際的に知られる。春陽会会員の武田百合子氏の師。

04|椿 貞雄
1896年-1957年 春陽会創設客員。岸田劉生とともに草土社の結成に参加。その後も春陽会で行動をともにしたが、劉生没後は独自な作風を開いた。

05|倉田氏
倉田三郎 1902年-1992年 春陽会会員。多摩地域を中心に作画活動を行い、東京学芸大学教授に就任、美術教育者としても活躍した。

06|山崎省三
1896年-1945年 春陽会創立客員。村山槐多の「槐多の歌へる」「槐多画集」の編集にあたった。
 
07|村山槐多
1896年-1919年 洋画家、詩人、作家 山本鼎は従兄。

08|草野心平  
1903年-1988年 詩人。「存在の愛しさ」と生命力にあふれる詩を書いた。文化勲章受章。

09|春陽会50周年の時
春陽会50周年「春陽会五十年の歩み展」に出品。1973年4月22〜5月8日 東京セントラル美術館

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