三井永一氏 に聞く 〔聞き手〕大石洋次郎 金谷ちぐさ
1920(大正9)年山形県鶴岡市生まれ。1938(昭和13)年第16回春陽展に初入選。1939(昭和14)年第3回文展に初入選。1953(昭和28)年春陽会絵画部会員推挙。1964(昭和39)年版画部会員推挙。1971(昭和46)年講談社出版文化 賞(挿絵部門)を受賞。1982(昭和57)年「挿絵原画展」(致道博物館)開催。1993(平成5)年「油絵とリトグラフ展」(致道博物館)開催。2003(平成15年「文学の挿絵展」(致道博物館)開催。2013(平成25)年6月1日逝去。享年93
2013年1月16日 於・座間 介護ホーム
■春陽会洋画研究所から画談会へ
中学校の先生は地主悌助(じぬしていすけ)。後に(昭和46年)、新潮社第1回日本芸術大賞を受賞した人です。昔は具象的な優しく白っぽい絵だったのに、受賞の頃の絵は大きく洗面器を描いたもの、漬物石や、ジャガイモや、和紙を四つに畳んで皺を描く、そんな絵でした。自分は絵描きになりたくて、16歳の時、親が芸大を見て来いということで上京し、叔父の世話になりました。当時芸大には岡田三郎助、和田三造、南薫造、藤島武二がいて、藤島教室に入りたかったのです。川端画学校〔註1〕に行ってみましたが、レベルの高さにびっくり。神様が描いたような写実。髭面、5、6回落ちている人などがいました。
ここはダメだと諦め、美術雑誌の広告を見て、光風会、独立、いろいろな研究所を見て回りました。内幸町のビル4階の春陽会洋画研究所〔註2〕に行くと、休憩時間なのか皆遊んでいて、バイオリンを弾いたり、蓄音機でモデルとタンゴを踊ったり、スチームの上でフランス語を読んでいたり、時間が来るとモデルを描く。その雰囲気は他の研究所にはなかったのでその場で入所を決めました叔父には来年も受験するからといって許してもらいました。先生はたいてい午後に来て、助手は当時の会友、遠藤典太(春陽会会員)、小栗哲郎(春陽会会員)など2、3人いました。先生には鳥海青児がまだいて、「三井君これ顔が違わない?こうじゃない?」「先生それ隣の石膏です」「あ、どうも失礼」隣の石膏を見て批評したのでした。中川一政は話が面白く、木村荘八は昼夜逆転の人だから夕方に来る。「勉強やめ、銀座に行こう、モナミ〔註3〕いくか。」多くて7、8人少なくても4、5人がついていく。飯食って酒飲んで。その時の話が勉強になりました。とにかく話が止まらない。そのころ私は〝三井少年〟と呼ばれていたがある時モダンな絵を描いたら少年が〝ボーイ〟に変わりました。鳥海青児と荘八は、酒は一滴も飲めませんでした。叔父に芸大には行きたくない、春陽会に出品したいと言ったら金は出してやるから入選しろと言われ、18歳で初入選、それ以来反対されませんでした。19歳で文展初入選。
洋画研究所は自分が17歳になったころだったか、研究所の資金が続かなくなり、会員が色紙を売ったりしました。当時家賃が300円だったかな?
荘八が森川町の自宅の画談会〔註4〕に来ないかと言ってくれ、一緒に研究所に通った者のうち5、6人が行きました。画談会は森川町時代岸田劉生が一緒の時代から行われていましたが、弟子と先生とは思わず、仲間という関係で絵を語る会でした。劉生と喧嘩したり。和田町に移ってからは倉田三郎が来て、最後は岡鹿之助も引っ張り込んだ。岡さんは二十年の外国生活の話やフジタ(藤田嗣治)の話などいい話をしてくれました。
■若き日の春陽会
聞き手 当時の友人といえば
友人ではなく偉い先輩ばかり。長谷川昇さんは1936(昭和11)年に春陽をやめて文展〔註5〕に移りました。他には中谷泰(春陽会会員)さんと親しく、五味秀夫君(春陽会会員)と会ったのはずっと後のことです。
18歳の初入選の時初入選のパーティでの小杉放菴、石井鶴三、中川一政、木村荘八等幹部の話が楽しい。荘八が立ち上がって自己紹介をする「私は中川一政です」。一政はキョトンとしている。次に一政が立って「私は木村荘八です」。皆文人でした。中でも尊敬するのは小杉放菴で、講習会〔註6〕があって論語、唐詩選などの話がお得意でした。鶴三はむっつりしていたけどなかなか中身がある。やっぱり彫刻家だね。デッサンがすごい。
その後版画もやりたいと思っていた時に、駒井哲郎(春陽会会員)が入ってきました。北岡文雄さん(春陽会会員)が研究会で駒井の作品を14、5点見せてくれたが、すごかった。岡さんは飛び上がりました。あの人は感激屋だからね。すぐに皆で、「入れましょう」となり、(昭和25年・第27回)春陽展で十何点か飾って会員になりました。パーティでダンスをせず佇んでいると駒井が、「僕もこういうのは苦手なんです」と話しかけてきて二人で会場を抜け新橋で飲みました。飲むとしゃべるが、いい話ばかり。永ちゃん、哲ちゃんと呼び合い、心が通じ合いました。夜遅くに「飲みに出て来い」という電話があったり。「永ちゃんも版画をやれ」と言われ、リトグラフをやることになり、アート倶楽部の講習会に行きました。利根川光人〔註7〕、駒井、摺り師は木村希八〔註8〕がいて、途中から美術家連盟〔註9〕会館5階に版画教室ができました。木口木版は城所祥〔註10〕、石版木村、銅版・・春陽でやめたひと?ずいぶん通ったものです。木村君がふじ美術に移るまで。最後は北園たけし(造形大)。
―『春陽画集』 三井氏の絵を見て―
これは町田風景。町田には30年いました。町田もどんどん変わった。
―『春陽画集』、他の作品を見て―
馬場檮男―大好きだ。全然ふざけていない、大真面目。いい人でした。
聞き手 友人はいらっしゃいましたか?
五味秀夫君。田中岑((こん))(たかし)ちゃん。
―経歴、『文藝春秋』記事、『木村荘八全集 第三巻』解説、を見せてもらう―
私自身は会の事務(南大路一事務所のもとで書記を務める)をやっていた。他は何もやっていない。
『文藝春秋』記事、これが絵描きになったチャンスの話。『春陽会七〇年史』に出ている。
■挿絵はアート
戦時中の職探し
テルミ化粧品宣伝部で一名募集があり採用されました。戦局が悪くなると化粧品がだめになり髪型デザインをやり、一年ほどで退職しました。その後、海軍とは別に、海、船、船員、造船のことなど教育する財団法人があり、そこの普及部(宣伝部)で芸術関係の仕事をしました。
昭和18年5月召集令状が来て最初は満州、それから済州島で終戦を迎え、11月に佐世保に帰ってきました。財団法人に復帰したが、荘八に挨拶に行ったら、早く絵描き仲間に戻れと言われたので勤めは辞めました。荘八が雑誌社に紹介をしてくれ、最初はカットから始め、挿絵をやりました。岡さんもカットの仕事を紹介してくれて、そのうち文芸誌、新聞のカットなど少し身入りになり、本物の挿絵描きになっていきました。昭和40年代になると死にたいくらい仕事が来ちゃって、昭和46年には講談社・出版文化賞(挿絵部門)を受賞。忙しくて油絵が毎年一点しか描けなくなってしまいました。
春陽展には挿絵室(昭和2年・第5回展から)があったが放菴、鶴三、荘八、一政4人で1室出来ちゃう。昔の挿絵は今と違ってアートだった。今はイラスト。昔の挿絵は自分あたりが最後かと思う。岡本一平〔註11〕は文展入選の技量があって、政治漫画が上手かった。挿絵賞、他に池部鈞、近藤日出造、山藤章二、片岡慎太郎くらいまでかな。何年かして司馬遼太郎の「街道を行く」の須田剋太が挿絵賞になりました。岩田専太郎は個人的に親しかったです。
■木村荘八の事
この大先生は一風変わっていました。女性が好きなのではなく寂しがり屋なんだ。兄弟が30何人いるから。
女子美の正門の前の借家時代、おきみさんという、すきや町(花街)のナンバーワンをひいて細君にしていました。その後女子美の裏、松林に家を新築し、家を建てるにあたって日本画を毎日描いて東京中の町屋に売ったそうです。おきみさんも大変な力を持っていました。借金も随分あったろうけど。
次のおとしさんは病弱だったが戦争中働いていて『墨東綺譚』の文章を見て、写生したり見物したりして先生に伝えたが、それが日課でした。そのころ初枝という人もいて、先生はおとしさんの妹と言っていたが、おとしさんの娘、連れ子で、おとしさんが亡くなってから3番目になりました。
画談会が終わり、我々が帰る時、「ちょっと出てくる」と言って出ると、次の女の人のところへ行く。おきみさんからおとしさんへ。歩いて14、5分のところ。バス停まで行くと皆と別れる。皆知っている。
初枝さんが関西に行って留守で寂しいから来いと夜に呼ばれて行ったことがありました。挿絵部屋は十畳和室、本だらけで家が傾いている。仕事をおっぽり出して話をし、挿絵のペンの使い方を、手を添えて教えてくれたものです。外国製と日本製の違いなども。荘八の手は荒れていてペンダコがありました。僕にとっては大先生というより親父だった。(27歳の年の差がある)
荘八が「ボーイさん(三井永一の呼び名)、待って」と言って大学ノートを持ってきて、中学の時書いた小説を見せ、絵描きではなく文士になればなんとかなったかな、などと言っていた。文学じゃどうかと思うよ。兄(木村荘太・作家)の影響もあり、舞台美術、映画、(弟・木村荘十二は映画監督)文章はお手のもの、翻訳もやったが、それでも絵を描いたことを悔いていたよ、あの大家が〝岡のやろうがうらやましいよ〟と言っていました。
佐藤篤郎(春陽会会員)、原田武夫(春陽会会員)、あともう一人で事務所をやったが、僕が手伝いをすることになりました。足立源一郎(春陽会会員)事務所と、木村事務所を手伝ったが、当時『春陽会ニュース』を月刊で謄写版で作っていて、発行すると荘八からすぐに来月の企画案の原稿が来る。いたずらです。「いろはがるた」を作ろうとか、猫に夢中で、原稿のついでに障子紙の切れっぱしに描かれた猫の絵が速達で来たりした。手紙はすごい量で、こっちは事務所だったからよくもらったが、井を三つ書いて三井と読ませたりしたものもありました。番地が合っているからそれで届くがあれは違反だね。
荘八の手紙は百何十点を駒場の日本近代文学館に納めています。近代美術館には岡氏の協力で『墨東綺譚』の挿絵があるが、挿絵で美術館に入っているのは他にないだろう。
一政の随筆は読んで面白いが文献としては荘八。
66歳で荘八死亡。倒れた時、僕がタクシーで東大内科教授を迎えに行った。脳の交差したところで出血している。脳膜下出血。がんにやられている。荘八は煙草を離さない。肺がんから。駒井も煙草を離さない、舌がん。
隣に住んでいた水谷清が中谷泰に電話してきました。荘八の家を解体するので縁の深い中谷と三井に来いとのこと、出かけて写真を撮りました。すでに取り壊されている状態だが、松が懐かしい、いつも裏門から入り、玄関から四尺幅の廊下がありました。

木村荘八 《ダンス》 部分
木村荘八作レビュー小屋の部分写真
東京シリーズ(新宿駅とか、全部は完成していない)の中の作品
F30~40号くらい
中谷泰がこの絵を気に入って、自分も気に入って。中谷が木村からこの絵をもらいました。絵の裏に「中谷泰に贈呈」と書いてあります。
―東京ステーションでの展覧会の話から
入江観君(春陽会会員)、小林裕兒君(春陽会会員)から電話があり、荘八遺族からもらった絵具箱の事を聞かれ、自分はホームに入るので春陽会でも小林君でももらってくれと言った。ステーションでも春陽会のコーナーでもと小林君に頼んだ。小林君にはついでに僕のイーゼルも持っていってもらった。
中谷泰の御嬢さんの家には荘八の大きいハンドルのあるイーゼルがあるはず、想像だが。あれも現役で使ってもらいたい品物。
■中川一政宅の楽しき委員会
アトリエ新築で皆を招待した時の写真。皆芸人で小唄をやり、鮨屋の出張があった。石井鶴三も元気でした。
私は絵を売ったことはない。「一枚の絵」の展覧会で小品を売ったことはあるが。郷里の鶴岡市にある財団法人致道(ちどう)博物館〔註12〕に絵を全部寄贈したいと言っておいたら、去年の暮全部引き受けてくれると決まりました。

横堀角次郎(手前左)の謡いに三味線を合せる木村荘八(右)。中央奥は倉田三郎、左奥中川一政。

中川宅では寿司の出張があった。左から石井鶴三、木村荘八、右手前三雲祥之助、その奥木本晴三。

三味線を弾く中川暢子夫人と木村荘八(手前)

「三井永一先生を偲ぶ会」
2013(平成25年)年9月14日 於・鮨處八千代四谷総本店)

三井永一リトグラフ遺作展より2015年
〔編集〕木村梨枝子 金谷ちぐさ
◆註
01|川端画学校
1909年(明治41)に東京都小石川下富坂町に川端玉章によって設立された私立美術学校。当初は日本画が中心であったが、1914年(大正3)に洋画部がつくられ、多くの芸術家を輩出した。
02|内幸町の春陽会研究所
1929年(昭和4)春陽会洋画研究所が麹町区(千代田区)内幸町ビルディングに開設され、多くの会員を輩出した。1937年(昭和12)財政難のため閉鎖したが、春陽会教場として上野韻松亭、お茶の水ニコライ堂等を経て1953年春陽会30周年記念として、市ヶ谷に常設の春陽会美術研究所を開設した。
03|モナミ
銀座の喫茶レストラン。作家の岡本かの子が名付け親で、文人たちが通った)
04|画談会
本郷の木村荘八宅で、1924年(大正13)以降月1回の画談会が開催された。木村を中心に横堀角次郎、鳥海青児 加山四郎らが研究生の作品を批評した。春陽会が何度か瓦解の危機を迎えた時も、会の存続の精神的力となった。
05|文展
文部省美術展覧会の略称1907年創設の官展。1946年に日本美術展覧会(日展)と改称
06|講習会
1927年(昭和2)放庵の提唱により、「老壮会」が発足し、荘子や、唐代の漢詩選集である唐詩選などが研究されたが、この会の事か?。
07|利根川光人
1921年-1994年 画家。美術団体に加わらず、独自の活動の末、晩年のドンキホーテシリーズに至る。
08|木村希八
1934年-2014年 日本の版画界を代表する刷り師。作家としても活動した。
09|美術家連盟
1949年、一般社団法人日本美術家連盟 個人加盟による美術家の全国組織として創立。初代会長は安井曾太郎。
10|城所祥
1934年-1988年 木版画家。国際展に多く出品。抽象版画から半具象、具象、静物と変化し小口木版も手掛けた。
11|岡本一平
1886年-1948年 第5回春陽会展で会員に推挙)画家・漫画家・文筆家・仏教研究家。岡本太郎の父、岡本かの子の夫。
12|財団法人致道博物館
旧庄内藩主の酒井家が開いた藩校の名前「致道」に由来する。