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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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〒102-0085 東京都千代田区六番町1番町一番館

アーカイブ インタビューINTERVIEW

長森 聰氏 に聞く 〔聞き手〕大石洋次郎 高岸まなぶ 畠山昌子 金谷ちぐさ

1928(昭和3)年神奈川県逗子市に生れる。本名は敏。1953(昭和28)年東京藝術大学芸術学科を卒業する。在学中に高畠達四郎、加山四郎に師事する。卒業後フランスに渡り、ロジェ・シャプランミディに師事する。1971(昭和46)年春陽会絵画部会員に推挙される。1980(昭和55)年から12年間新潟大学教授として大学院西洋画実技指導を担当する。2013(平成25)年『アララギ叢書 寒色暖色 長森聰歌集』(現代短歌社)を刊行する。91年の生涯で54回の個展≠ニご自身標榜。2019(令和元)年5月12日逝去 享年91。

2016年5月29日 於・宮前平 介護施設(長森氏居室)

長森 今日はありがとう。この人(大石氏)は私の跡取りになっています。昔、北岡文雄先生が近くに住んでいたのだが、代わりにやってくれるか(日本興業銀行の美術部指導)と言われ、その後30年近くやりました。80歳になった時にこの人(大石氏)に譲り、今88歳ですよ。あれは83歳の時だったかね?

■人を繋ぐ木村荘八

春陽会洋画研究所にて(中川一政・木村荘八ほか)

長森 
皆さんに一番話したいことは春陽会教場〔註1〕のことです。教場に来てそのまま美術学校に行かなかった人がかなりいました。創画会で油絵に興味がある画家、岩崎鐸、土井久美子、が来たことがありました。今とは雰囲気が違って開かれた会だった。
大石 三井永一さんもそうですね。
長森 岡鹿之助、三雲祥之助、加山四郎の指導が中心でしたが石井鶴三先生や木村荘八先生が熱心でした。木村先生は自宅でも画談会〔註2〕をやっていて、教場にはその出身者がかなりいました。人と人とを繋ぐのが上手いので、春陽会をまとめるためには必要な人だったと思います。ブラックの言葉が好きでしたが、本物の絵を見たときにマチエールが好きではないので、これはだめだと言っていました。木村先生は一種の批評家で、正確な批評をしましたが、美術学校は出ていない。うますぎたのだと思う。学校は必要なかったのでしょう。江戸っ子で、代表作《牛肉店帳場》、《パンの会》、本格的な油絵。丁寧に描いている。しかし題材は日本的。そういう意味で春陽会らしい絵。《新宿駅》もいい。
小杉放菴は日本画と油絵の中間の様な人、だから何とも言えないけどね。木村先生がある時った言葉、自分たちには厳しい言葉だったのだけれど「君達は僕がどのくらいの人間か知らないだろう。僕は18の時から有名だったんだよ。君達とはわけが違うんだよ」。早熟の天才でした。若いころ劉生と出会い、劉生とすぐに友達になったらしい。「パンの会」(明治末の青年文芸・美術家の懇談会)には北原白秋、山本鼎、小杉放菴、倉田白羊などが入っていました。木村先生の父は遊び人で、お妾さんが何人もいて息子には荘という字を付けて十二までありました。荘(そ)十二(とじ)。色街に詳しくて、永井荷風の『墨東奇譚』などまるで見てきたように書いています。
高岸 (遊びを)教えてくれました?
長森 私には教えてくれませんでした。

■石井鶴三の「空中デッサン」
長森 もう一人は石井鶴三先生で、傑作だったのは「空中デッサン」。戦争中春陽会の人たちは戦争に協力しなかったので絵具の配給がありませんでした。そんな中、石井先生は両手を伸ばして「私は空中デッサンで十分だ。絵具や筆がなくても立派な絵が描ける。どう思う?」と岡先生に聞きました。岡先生は正直な人だから。「私は絵具や筆がなかったらとても絵は描けません」と答えたが、今考えてみると石井先生はそういう覚悟でやっていたということだね。当時芸大には2人教官がいて、一人は山本豊市〔註3〕、マイヨールの直弟子で、もうひとりが石井先生。石井先生はデッサンの話でも分かるように精神主義でした。ある時、私の後ろから石井先生が歩いて来て、「君の歩き方はなっていない、もっとまっすぐ歩かねば。まっすぐ歩く人はまっすぐの心を持っている。まっすぐ歩かないやつはダメだ。歩いてみせるからよく見てろ」と。でもお年を召しているからよろよろだったよ。

■岡鹿之助と三雲祥之助、加山四郎
長森 春陽会教場は、昔は他の会の人も絵を背負(しょ)って来ているような選ばれた会でした。岡先生は孤独だったが、性根が座った人でした。ある人に「君はこういう絵を描いた事を一生の恥にしなさい」と言ったが、今はそういうことは言わないでしょう。その人はそれを機会に絵がぐっと変わったと思う。岡先生は私に「色感がすごい」と言ったが、三雲先生はあまり褒めすぎちゃダメと言っていました。加山先生には君の絵を直すのが楽しみだと言われました。
 理論的に解明するのは三雲先生でした。京大を出て、フランスに行ったが、私がフランスに行った時、田舎の美術館で「三雲を知っているか? 私の先生だ」と言ったら、「三雲は良い画家だ」と言われ、フランスでも知られているのが解りました。その時三雲先生に頼まれて個展用の絵を持って行ったのだが、なんとカレンダーの裏に描いた色付きのデッサンでした。画廊の主人と村山密(しずか)〔註4〕が、評を『ル・モンド』〔註5〕に書いてくれました。
高岸 女主人と仲が良かった。村山さんは帰化した。
長森 加山先生は魚の絵と花火の絵が得意で、花火の絵はスポンジに水彩絵具を吸わせて、ぽっぽっと。魚の絵は日本料理屋によく売れたそうです。

■中川一政と靴の詩
長森 小学校の時、中川一政先生の弟子という人に絵を習っていて、その先生から「絵を描くなら中川先生の所へ行け」と言われました。
高岸 卒業制作は真鶴ですよね?
長森 卒業制作は真鶴です。真鶴〔註6〕の中川先生の知り合いの畠達四郎という先生がどういうわけか私をかってくれて、夏休みが終わってその絵を見せたら、卒業制作でいいよと言われました。真鶴を見下ろした絵です。
 庄司さんの家を紹介してくれて、一人でのんびりしていいよと言われました。大きな屋敷で戦後だから少しお金に困っていたのでお金を取って部屋を貸していましたが、私はその取りたて役みたいなものもやっていました。中川先生のところに良く行って、面白いやつだと気に入られたようです。魚を買って焼網の上にのせて持っていったら、「君はバカだから面白い」と言われました。いろいろなことを話してくれて、ある時、「こんな絵を描いていたらだめだから死にたい」と言ったら、「梅原もそういうことを言っていたよ」と言われました。「君はまだ若いし、梅原みたいに偉くもない」、そして真鶴を坂の下から見上げた絵をみて、「これがいい、こういう風な絵を描いていけば死ぬ必要はない」と励ましてくれました。
 中川先生は内輪ではよくしゃべるが、講演はスローで話す。そこが木村さんとは違うが、ざっくばらんで面白い人でした。中川先生の話は人気がありました。
大石 中川さんとか木村さん岡さんの話が出てくると、そういう話が聞けて先生がうらやましいですね。彼らから直接学んだわけで。
長森 春陽会教場を紹介してくれましたが、一政の紹介だと言ったら皆にびっくりされて扱いが良かったんだ。大いに得をしました。
 もう一つ感動したことがあって、中川先生はお金がないからいつも同じ靴をはいていたら擦り切れて穴が空いたそうです。靴の底を持ちあげて覗いたら青空が見えて、それを詩に書いたのですが、これを読んだ時すごいと思いました。貧乏しながら心の余裕があって、非常に感動しました。中川先生の絵は不器用に見えるけど、あの絵は逆の性格の絵で、わざと下手に描いている。文字もでかく書くがノートなどの字はきっちりしていて、ただ者ではない。学校を出ていないことを逆に自慢していて、「君達は檻の中で育った。僕はそうではない。僕は野獣だ」と。これはおもしろいね。
 前田舜敏さん関四郎五郎さんと共に聞いた話だが、「僕は坊主が一番好きだ。中でも一休が好き」。一休は坊主では破格。一政は破格の人が好きでした。だから絵も破格。迫力を積み重ねる。だから一政ファンがかなりいる。ある日、ファンが大きなタイを持ってくると、それを直接描く。非常に快感を覚えるとのこと。なかなかこすっからいところもあるし正直なところもある。私には安心して何でも話す。尻掛(しっかけ)という岩だらけの海岸があり、一政はそこで泳ぐ。体が丈夫だったのだろう、昔風の泳ぎでした。
 木村先生は発想で描く。中川先生は、見て見て見て、それがデフォルマシオンになる。初期の絵はおとなしくてポエジーがある穏やかな絵。それが激しい絵になりました。使っている絵具にも関係があるのかもしれません。
 中川一政の奥さんは有名な人で、建築家の伊藤為吉〔註7〕の家系です。伊藤道郎〔註8〕(舞踊家)、伊藤熹朔〔註9〕(舞台美術家、春陽会会員、下に写真)、伊藤暢子(中川一政の妻)、千田是也〔註10〕(伊藤圀夫 演出家)を輩出しました。


伊藤熹朔

■三岸節子の話
長森 三岸節子は最初の頃春陽会に出していました。木村先生は三岸の最初の個展を褒めた文章を書いて、三岸はいまだに木村先生の事を有り難い人だと言っていました。木村先生は外の人にも同じように目をかけていました。
 私は息子の三岸黄太郎〔註11〕と仲が良かったのです(2回目にフランス滞在した時)。三岸節子の言葉はよく覚えています。「先生になってはだめだ。絵描きにならなければ。一生絵以外のことはやるな」好太郎は女好きで異性問題が絶えませんでした。でも好太郎のことは尊敬していて、そこは三岸節子の面白いところです。心の優しい人。黄太郎もそうだけど。黄太郎の得意料理は羊肉を焼いたもの。行くとよく出してくれました。節子は映画が好きでした。ベネチア映画の話をよくしました。
 田中岑さんは三岸節子のお葬式に行ったそうです。三岸のごつごつしたマチエールの絵が好きだったらしい。黄太郎の絵も良かった。三岸節子は偉い人が嫌い。中川の話をすると「あの人大嫌い」。自分より偉い人は嫌いなんだ。ものすごく気が強い人で、知識に貪欲な人でした。
 節子が褒める人は好太郎と黄太郎。お別れにワインの杯をもらいました。私のブルゴーニュ時代の家はひどい所で台所がなく洗面所と一緒でした。それを三岸さんが見て、「あんまり貧しい暮らしをしていると絵も貧しくなってしまうよ。いい家を探してやるよ」と言って、息子と一緒に走り回ってくれました。女房が病気になった時、三岸さんの息子が病院に連れて行ってくれました。

■フランスでの事
長森 フランスではけっこういろんな人と会いました。藤田嗣治にも会いました。藤田の親類の人に日本のウニを持って行ってくれと頼まれ、届けたら喜ばれました。「君は絵を描くところを見たいだろう、見ていいよ」。小さい3号くらいの絵を見せてもらった。少女の絵でした。
 浜口陽三にも会いました。正直な人で、「君はお金いくら持っている? 留学生はいくらもらっている? それでは足りないから何とか方法を考えなきゃだめだ」と。パリはいろんな人がいておもしろかった。
高岸 岡さんとフランス語をしゃべったかどうかお聞きしたい。上手いでしょ? 
長森 岡さんとフランス語でしゃべったことはないですね。私はフランス語が他の人よりはっきり出来たので、試験の時フランス人の質問が全部分かりました。君は、本当はフランスに行ったことがあるのでは? と言われました。全く初めてなのに。
高岸 三雲先生のフランス語はどうでした?
長森 三雲先生は私が留学の為フランス語で書類を作った時、それを見て「まあ、いいよ」と言ってくれました。
高岸 そのほかの人は? 
長森 美術学校の先生がとても親切な人でした。ロジェ・シャプランミディ。2年習って、それまでの作風を捨てました。向こうでは普通のデッサンが描けなければだめだ。それまで芸大でおだてられていて、いい加減なデッサンでも良しとされていたが、向こうでは通用しません。私のデッサンを直してくれました。おっぱいが一本の線でぐっと出てくる。ロジェ・シャンプランミディ師匠はフランスでは有名。スキーでけがをした時、病院で師匠の名前を言ったら4人部屋が個室になりました。あまり日本では知られていないが。一時吉井画廊で扱っていて進藤蕃が買いました
 私は芸大で8年、パリで6年学校にいました。フランスの学校ではヌーボーいじめ≠ニいうのがあり、パリのボザールの新入生の儀式で、公園で通る人に「私はあなたが好きです」と言わせられ、それを上級生が蔭から見ている。面白かったね。
高岸 フランス女性と微妙な話はできたのでは? 微妙なニュアンスの。
長森 ははは(笑)、私もくそまじめなところがあるから・・・。
 私の頃、笠井誠一と進藤蕃。進藤蕃は気が強い人で、「今年は僕がフランスに行くから君は後だ」と。笠井が先に行って残念がっていました、進藤、私、そして入江観。
高岸 先生の本名は敏ですよね?
長森 フランスに行く時別人になろうとして名前を変えました。「敏(さとし)を聰」に。何か新しい事をやろうとして。

■デッサン・色・バルール
長森 好きな色があるんです。ローズ色が好きなんです。普通の景色を絵にする時は自分の色にするのですが、描く楽しみは、色にあります。トルコブルーも好きです。今度の絵の静物画に使っていますが上手く使うのは難しい、特殊なブルーです。バベルの塔は意味が深い。色であらわす。色の塔だ。あなたも青の塔だ。(畠山さんに向って)。私はアララギ〔註12〕の機関誌に青について書いています。色の歌。バルール〔註13〕については岡先生が非常に強く言っていました。私は下手だけどバルールについては考えています。色を使える人は少ない。私は下手だけどバルールについては考えています。バルールは非常に大切な要素で、いろんな色があり、出てきたり入っていったりを昔は濃淡でやっていたが、バルールというのは濃淡ではない、色調全部違うのを分量を決める。ロジェ・シャンプランミディィはトルコブルーを言っている。ドランはバルールが多いが一番クラシック。   

■家族の事・会の事
長森 私の父貞夫は府中競馬場の場長(日本競馬協会副会長)で、日本でダービーを初めてやりました。子供の頃競馬場へ馬車で行ったことを覚えています。姉は生産馬数では日本一の社台牧場〔註14〕をやっています。
 女房はアララギ派の歌人で(長森光代〔註15〕)これは私の句集ですが、(『アララギ派叢書 寒色暖色―長森聰歌集』)私は女房に、ほんの少しは認められていました。
 中川一政がパリに来た時、「君の奥さんは歌をやっているというけどどういう歌か」と聞かれた。「アララギです」というと「アララギはだれが好きか?」。斎藤茂吉と答えると一政は「ぼくも茂吉が好き」と言っていくつか詠みました。一政はね、というか春陽会は絵と文学が合体した文化で、特に『白樺〔註16〕』と仲が良かったのです。武者小路実篤の小説の中に、これが梅原これが中川とわかる部分があります。
金谷 今の春陽会について。
長森 今の春陽会は文学と絵との結合というのがあまり見られないから、その点がちょっとさびしいですね。文化の坩堝(るつぼ)と言うか、そういうものが春陽会に欲しいと、私は思っています。そういう意味でいろんなことをやるやつ、小林裕児さんなんかはおもしろい。今の春陽会で面白い事をやっている一人だと思います。一人ひとり特色はありますよ。金谷さんも特色がある。透明度のある絵だよね。清水美三子さんはなかなかいいね、仲よしなんだ。


第94回春陽展出品作品

〔編集〕木村梨枝子 金谷ちぐさ

◆註
01|春陽会教場

春陽会教場は、昭和初期設立の春陽会洋画研究所が閉鎖された後、戦中、戦後(1943年〜1950年)の混乱期にこれを復活するようなかたちで誕生した。今日の春陽会研究会の礎ともいえるもので、ニコライ堂、 万世橋裁縫学校、 都立工芸学校などの一部施設を借りながら、中川一政. 石井鶴三、木村荘八、小杉放菴、三雲祥之助、岡鹿之助、加山四郎など会の柱となる会員が指導にあたった。戦時下、集会禁止令の中でもひそかに開催するなど、講師の絵に対する情熱や姿勢には並々ならぬものがあり、技術面だけでなく精神面も重視する指導が行われ、教場生に対する絵の批評には厳しいものがあったもののかえって師弟の絆を深めた。(中山) 

02|画談会
本郷の木村荘八宅で、1924年(大正13)以降月1回の画段階が開催された。木村を中心に横堀角次郎、鳥海青児、加山四郎らが研究生の作品を批評した。春陽会が何度か瓦解の危機を迎えた時も、会の存続の精神的力となった。

03|春陽会教場
山本豊市1899年-1987年日本人では彫刻家マイヨールの唯一の直弟子。乾漆技法を現代彫刻に生かした作風で知られる。

04|村山密(しずか)
1918年-2013年 春陽会展入選 アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエール教授。

05|ル・モンド
フランスの中道左派新聞 紙名はフランス語で「世界」の意味。

06|真鶴
1949年(昭和24)、56歳になった一政は、神奈川県真鶴町で、湯河原の漁村・福浦の連作を始める。

07|伊藤為吉
1864年-1943年日本の建築家・発明家。伊藤道郎、伊藤熹朔、暢子、千田是也の父。

08|伊藤道郎
1893年-1961年日本のダンサー、振付師。

09|伊藤熹朔
1899年-1967年日本の舞台美術家、美術監督 春陽会舞台美術部会員。

10|千田是也
1904年-1994年日本の演出家、俳優。本名は伊藤圀夫。

11|三岸黄太郎
1930年-1934年 洋画家 父好太郎、母節子の第3子。

12|アララギ
アララギ派は、正岡子規の短歌論を信奉し、歌集『アララギ』に集った歌人またその系譜。写的、近代的な人間の心理描写を特徴とする。

13|バルール
Valeur[仏] 日本語訳は色価。明暗と位置関係の対応などが適切である場合に「バルールが合っている」という。

14|社台牧場
北海道千歳市にある競走馬の生産牧場。国内外の一流血脈を受け継ぐ種牡馬を多数繋養し、優秀な競走馬を多く輩出する。

15|長森光代
アララギ派歌人 著書に「ブルゴーニュの村便り」「野のマリア」など。

16|白樺
白樺派は、1910年(明治43年)創刊の文学同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮の一つ。春陽会草創期会員、岸田劉生、木村荘八、中川一政等が深く関わった。また、我孫子白樺文学館には1920年代、白樺派文士が住んでいた頃交流のあった春陽会会友原田京平の資料も保存されている。


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