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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

戦争のとばくちに立って 2        原田 光


 林倭衛の10代後半は、労働運動とアナーキズム活動のなかにあったが、絵が好きで、水彩画研究所にも勉強にいった。そこで、硲伊之助と出会っている。硲は富裕な実業家の息子で、画才も豊か、フュウザン会展の最年少出品者であり、第1回二科展で二科賞をとった。発奮して、林も、第3回二科展に出品して入選、翌年には樗牛賞をもらい、その翌年、二科賞をとった。とんとん拍子の出世、気鋭たちの登場であった。また、林は木下孝則とも親しくしていた。木下は学習院出のお坊ちゃん、白樺派の末流であり、画家になりたかった。第8回二科展で入選し、直後に渡仏したが、その後に、樗牛賞、二科賞をとった。片や労働運動の活動家、片やブルジョアの子息たち、二科の舞台では、親友であった。
 1921年(大正10)、林と硲は同じ船に乗って渡仏した。追いかけて、木下も渡仏した。
 第一次大戦後のパリである。そこは、革命家、亡命家、貴族、詐欺師、画家、詩人、その他いろいろ、他国から集まった根なし草たちの吹きだまりであり、だから、そこから、エコール・ド・パリも出現しえた。そのパリに、アナーキスト大杉栄が、日本を脱出してやってきた。林が迎えた。大杉はパリで逮捕され、強制送還されることになった。面倒をみたのも林であった。また、青山義雄であった。青山の方は、パリの日本人会の書記をしていた。パリに来る日本人は、多く、彼の世話になった。その林と青山も渡仏前からのつきあいで、縁は深い。面倒見のよい2人の周囲に、他の画家とのつきあいも広まり、ともに旅をし、適地に逗留し、切磋琢磨して、制作にもはずみがついたというわけだ。
 渡仏して間もなくして、林は足立源一郎の訪問をうけた。林と硲にむかい、春陽会にこないかと誘うのであった。山本鼎の意向でもあったようだ。新人たちの輝かしい登竜門である二科から、目立った才能を引きぬいて、そのうえ、パリの箔をつけさせ、新発足の春陽会に、新風を吹かせようということのようだった。虫のいい目論見であるが、窮屈な二科よりベンチャーの春陽会がいいと、天秤にかける新人はいて、チャンスがあれば、ふさわしい活躍場所を選ぶのは当然だろう、と考えたかどうか、足立との話しあいの結果、1922年(大正11)の春陽会発足に、「客員推挙」という名称で、林と硲の名が登録された。もう一人、やはり渡仏中の小山敬三も登録された。小山は、二科とは関係なしだが、信州小諸の出身で、渡仏前に、上田を活動拠点にする山本鼎を訪ねたこともあり、地縁でつながった。それをいえば、林もまさに上田出身、上田の結びつきも作用したと思える。
 林の帰国は1926年(大正15)だが、直前に、二科の石井柏亭から、二科に戻るよう催促された。直後には、足立から、春陽会に来るよう念おしされた。そうして、先約どおり春陽会とした。硲や木下、鬼頭らは、林の判断に従って帰属を決めるつもりでいたので、春陽会で定まった[註02]。
 効果てきめんだった。1927年(昭和2)の春陽会第5回展には、林作品の特別陳列があって27点出品、硲6点、鬼頭11点、小山6点などが並び、「滞欧作品が新鮮感を放って、従来の春陽会と一味違ってきた」[註03]といわれた。とくに林作品は絶賛をうけたという。さらに、29年の第7回展では、冒頭に記したような、フランス組6人の特別陳列[註04]が続いた。この第7回展の前、林は再渡仏していて、1年と少し、パリとエクスにいた。乱脈な生活をしたらしい。再渡仏で描いた作品が、第7回展の特別陳列出品作になった。好評であった。しかし、第8回展は不出品。不出品のその展覧会に、荒木季夫の展覧会評が出て、活気づく春陽会の様子をうかがわせる。「近代フランス風の、清新な潮風に帆を揚げながら、狭い入江を抜け出て洋々たる海原へ─さうした積極的な心持が最近の春陽会に動いてゐることは否定できないだらうと思ふ。過去に兎もすると独善的な低徊趣味がつきまとつてゐた。今は遥にひろい自由な境地に向かつて進みつつある。これは勿論慶ぶ可き現象である。しかも、その為に春陽会は日本的な本来の面目を少しも失つてはゐない。唯だ自分の世界を拡大して行つただけである(『みづゑ』5月号)」[註05]。林作品は不在、しかし、展覧会は高評。
 その後の春陽会展に、林は、渡仏作は出さなかった。伊豆に滞在して描いたり、房総鵜原で描いたり、穏やかな海辺や里山の風景などが中心の出品になった。とともに、前のような評価はうけなくなった。自分でも不調を感じていた。酒におぼれたりした。
 1934年(昭和9)、林は春陽会を脱退した。その理由は、ともにフランスで勉強をした田中万吉と橋本節哉を会員・会友に挙げようとして、会務委員会[註06]で争い、そのことを他の場所でも難じたために、逆に強くたしなめられたからだという。林に同調して、この年、同期フランス組の面々が集団的に辞めてしまった。
 これだけならば、なんだ、人事がこじれての脱退か、よくあることさ、で終わってしまう。脱退者の林倭衛を、わざわざここまで追ってきて、こんなありふれた結末では、承知してもらえそうにない。しかし、実は、ここには、別の根深い対立があり、それが脱退を引きおこしたという背景がある。美術史もそれを語る。そうだろうと僕も思ってきた。つまりは、日本とヨーロッパの対立、伝統文化の再評価派とモダニズム追求派の対立、明治初期から何度も蒸しかえされてきた対立の春陽会版であると。ところが、今度ちょっと調べた限りでは、当事者たちの証言が見つからない。むしろ、新聞雑誌がはやしたて、あおって書いたことかもしれない。

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