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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

戦争のとばくちに立って 4        原田 光


 先に触れた帝展改組のことだが、挙国一致をかかげた文部大臣松田源治を皮肉って、いわゆる松田改組とよばれた案を、少し細かに紹介する。案の骨子は、帝国美術院の会員数を、これまでの30人から、新たに20人加えることにし、この新会員の討論によって、諸制度をあらためる。これまでの機構制度は廃止する、ということであった。新会員には、在野美術団体のなかの実力作家が名ざしされ、春陽会からは、小杉放庵があがった。
 これにより、情実がはびこった帝展の審査を変え、これまで無鑑査特権を享受してきた画家たちからその特権を消滅させることになる。しかし、たちまち反対が巻きおこった。帝展の画家たちは右往左往し、無鑑査だった者、審査員だった者、特選を受賞した者たちが新帝展不出品を表明し、在野団体も、帝展中心の機構改革に吸収されることを警戒し、反対した。収拾つけがたくなったが、さらに波及して、帝展無鑑査の有志は「第二部会」を結成し、秋に、第二部会展を開いてしまった。風雲急をつげるなか、新帝国美術院は総会を開き、参与、指定、無鑑査資格などとよんで、さらに拡大して在野の実力者を指名すると同時に、排除した無鑑査画家の全員を掬いあげることにした。なにがなんだかわからなくなり、反対ばかり、火に油をかけたようになった。このときに名ざされた春陽会の画家は、参与に山本鼎と長谷川昇、指定に石井鶴三、足立弦一郎、木村荘八、倉田白羊、中川一政であった。しかし、春陽会は美術院の案に賛同せず、純粋在野団体として行動すると決めて、会員の小杉を含む、参与と指定の全員が任命を拒否した。ところが、山本は受諾した。そうして、春陽会を脱退した。
 翌年、松田は急死し、文部大臣は平生釟三郎となり、さまざまに折衷的な再改革案がだされたが、反対拒否にあうばかりであった。その影響で、第二部会を割った猪熊弦一郎、小磯良平らは新制作派協会を設立し、年末には、新帝国美術院の会員になって二科を脱退した安井曾太郎、石井柏亭らが一水会を設立した。ちなみに、この一水会に、硲、小山、木下など旧春陽会会員たちの何人かが、二科を経由して集まった。
 結局、平生は、帝国美術院主催の招待展と文部省主催の監査展とを分けて開くこととし、旧帝展無鑑査の全員を復権させて招待展に招くことにした。鳴動した挙句、何も変わらない後退案をさらけた。さらに翌年、また改組があり、帝展無鑑査組に各美術団体からまねいた画家をあわせて招待展とし、公募展をだきあわせにして、新文展として発足させた。やっと騒動はおさまった気配だったが、疑念を残した。しかし、春陽会も納得して、新文展にあらためて審査員を送ることにし、とりあえず木村と中川をあて、以後は、順々に回りもちにすることにした。審査員は新文展の指名ではなく、合議で決め、各団体それぞれの考えで、だしたりださなかったりもできた。
 改組の経緯はわかりにくく、間違いなしに書けたかどうか、自信がもてない。
 ところで、どうして山本は参与など受諾したのか。「先生は大阪でいきなり賛成宣言をされた。ヒニクじゃないか。その時東京で反対宣言の会報を書いていたのが僕だ」[註08]。続けて、先生は清潔だ(要するに、潔癖だ)といって、山本の、受諾すなわち脱退の態度を、木村は嘆息した。
 しかし、以前から、山本には、帝展かくあるべしという理想のようなものがあった。「(帝展)は、国費によつて支持される唯一の国家的展覧会であれば、其内容は各流派を包摂し、重なる勢力を悉く網羅したものでなければならない。……創作の代表的なるものを紹介して、美術の社会教育を行う点により重要な意義があるのである。……とにかく僕は、昔から国家的展覧会必要論者だ。而して国費をもつて支持されるところの帝展を国家的展覧会たらしむべしといふ論者だ」[註09]と語る。力量にとんだ在野各派を総合したところに帝展の存するのがいいという。
 この考えは、多分、他の春陽会の仲間と異なる。何やらいかめしいこの帝展論を読むのは苦労だが、そう読まず、山本が社会教育というときは、彼が全力投球してきた児童自由画展の運動や農民美術研究所を思い浮かべ、これらを発想した彼の独走こそ、社会運動だし、社会教育だし、それらの先がけだったことを認め、国費によって支持された云々を読むときは、これらの社会的運動に国費を出せと、そんな要求を突きつけているようにも、僕には読める。美術にたいして国がやることはいくらでもある。それをやれと、帝展にかこつけて、国に要求していると読んだら、おもしろい。
 実は、山本は、先がけの社会運動に出費しすぎて、大きな借財をかかえていた。
 年譜によると、1917年(大正6)、自由画教育、農民美術運動のことを、金井正、山越修蔵に相談している。1919年、上田の神川小学校で、第1回児童自由画展を開いている。1923年、上田の隣の大屋に、農民美術研究所を建設している。以後、資金も時間もえんえんと注ぎこんできた。春陽会設立より前からということになる。倉田白羊をはじめ、小杉、森田、石井、山崎省三らが上田を訪れ、支援しだした。倉田は、上田に引っ越しまでしてきてしまった。
 後に、春陽会が、水墨室、素描室、挿絵室をこしらえたごとく、児童自由画室とか、農民美術室とかを併設したとしたら、どうだったろうか。あるいは、各地の展覧会や研究所にでかけて、画家が講師などをおこなったら、どうだったろうか。美術団体の社会進出がおこってもよかった。
 それはともかくとして、山本には、天下国家を語らずばおかない風の、いかにも明治人の気骨がみえかくれしていた。そのせいで、画家ということも忘れて、社会的行動にかけずりまわった。美術を使って、子どもや農民と交通し、貧困をなくし教育を高め、恵まれた社会をこしらえようとした。しかし、その気骨には、別の側面もうかがえた、第一次上海事変がおこったとき、爆弾かかえて敵に突っこんだ兵士の戦死を、肉弾三勇士の美談に仕たてた新聞記事に感涙し、奉納画に描いて、どこかへ献じようとした[註10]。はたして戦争画か。春陽会の画家に、昭和の戦争画を描いた者はほとんどいないと、僕は思っているのだが。ここからはじまる春陽会の戦争の10年を、もっとくわしく調べてから、いうべきことである。
 山本が脱退したとき、同時に、会員の山崎省三と会友の前川千帆も脱退した。帝展問題について、意見が同じだった。その2年前、1933年に脱退した硲も、すでに弊害ばかりの帝展批判がはじまっていたときに、帝展を「常設美術統括機関」となし、それが「在野の最高司令機関になるのである」[註11]といって、帝展の理想のあり方を提唱した。山本の帝展論と共鳴しており、帝展とかかわりたがらない在野団体の利己主義を批判した。それが脱退の原因となった。
 硲の脱退は、親友の林には、ずんとこたえたと思える。林もふらついた。

(はらだ・ひかる/元岩手県立美術館館長)

◆註
01|横川毅一郎「帝展改組をめぐる諸現象の文化的研究」(『アトリヱ』第12巻7号、1935年)
02|ここまでの林倭衞をめぐる記述の相当部分は、小崎軍司『林倭衛』(三彩社、1971年)によっている。
03|匠秀夫『物語 昭和洋画壇史 1 パリ豚児の群れ』(形文社、1988年)
04|1929年第7回春陽会展の滞欧作特別陳列には、冒頭に記した5人以外に、長谷川昇がいて、実際は6人の作品が出た。長谷川昇は創立会員で、渡欧歴は3度、3度目は、滞仏2年で1928年に帰国しており、29年の特別陳列となった。キャリアが違うので、冒頭の名前の列記から排除した。
05|同註03
06|春陽会では、会員から会務委員を選び、その合議によって会を運営する制度を1931年に制定した。創立会員の長老格を排除し、中堅が中心の集団指導体制としたが、その最初から、入会して間もなくの林と硲が加わっていて、多少の軋轢を生じさせていた。
07|対談 倉田三郎・藤本韶三「春陽会創立六十年間の歩み」(『三彩』No.428、1983年)
08|「木村荘八 倉田三郎宛書簡(昭和23年3月28日付)」(『春陽会七〇年史』社団法人春陽会、1994年)
09|山本鼎「展覧会廻り舞台」(『アトリヱ』第12巻7号、1935年)
10|小崎軍司『夢多き先覚の画家 山本鼎評伝』(信濃路、1983年)
11|硲伊之助「在野美術団体統括機関設置提唱」(『アトリヱ』第10巻第3号、1933年)



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