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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

戦争のとばくちに立って 3        原田 光


 下世話な言い方で、繰りかえすが、林と硲と小山は、春陽会結成のときにすでに、「客員推挙」という待遇を受けていた。出しぬけに、厚遇で招かれたことになる。看板画家がほしかったからだ。彼らに限らない。新生春陽会は、パリで勉強中の画家たちを、なるべく多く呼び寄せたかった。パリには、もうすでに、どうも新しい美術団体ができるらしいと、噂はとどいていた。そんなら、新天地で活躍しようかと、期待した画家は多かったろう。
 旧日本美術院洋画部とか草土社とか、そこからきた創立の同人や、招かれて創立にかかわった梅原龍三郎、岸田劉生、萬鐵五郎たちは、たがいの仕事の内容を十分に知っていて、
 共感しあい、ならばということで、新しい団体をこしらえた。その時点で、もう幾分、「独善的な低徊趣味」横溢の団体であったはずだ。同人展ならそれでよい。しかし、それじゃあだめだと、同人たちは思案した。若い才能を育てる場所にもならないといけない。しかしだが、育つには時間がかかる。とりあえず引きぬいて、新風を吹かせようということだったと思える。
 ここから、2点のことが指摘できる。1点は、またしても下世話だが、招かれてきた人は辞めてしまう。もう1点は、フランス派と日本派の対立は、本当にあったのだろうかということである。
 林たちは、脱退していった。それにしても、いっせいに辞めた後、みんな、ほとんど散りじりに別の団体へと去っていった。あまりにあっさりし過ぎていないか。そう、また、下世話にかんぐる。春陽会にたいして、こだわりがない。彼らが、春陽会の低徊趣味と対立し、こだわって脱退したのなら、その主張は何だったか、言葉ででも、絵ででも、表現して当然だったろう。ともに新団体をつくろうという発想などはなかったのか。どうもなさそうだ。
 こんなことを書いていると、だんだんと僕も独善におちるが、このフランスと日本の対立を、春陽会は、それで悩んだというより、それを喜んだところがあるのではないかと、なかばヤマ勘だが、思えたりするのである。
 林たちフランス組をけなしたような書き方をしたと読めるかもしれないが、そんなことはない。1930年代前後からはじまった彼らの出品は、大正昭和を画したように、すっきりしていて、明るくて、構成的だし、詩的だし、新風を吹かせて、来館者を喜ばせた。新聞評を見るとそれがわかる。しかし、創立あるいは中堅会員たちの作品は、暗く、ひねくれていて、日本的・東洋的だとか、稚拙・素朴に傾斜しているとか、隠遁者の趣味だとかと、対照して、批判されることが多かった。たしかに、春陽会のなかは、倉田三郎がいうように、「(退会した理由というのは、)まず真先に絵の匂いが違うということ。この時代に未だに日本の黴臭い絵を続けるのかと言う。ところがもう片方は、そんないい加減なもんじゃない。我々の魂の故郷を知らずして何が絵だと言うわけです」[註07]であって、争いも対立もおこったが、創立中堅組は、それを悲しまずに、歓迎したふしがあるのである。自分らの作品の奥の「魂の故郷」に、争いや対立によって、照明があたり、魂は露出した。明暗くっきり、春陽会の持ち味は、明暗によって引きたったといえる。フランス組は重要だった。
 春陽会の持ち味は、対立によって生じる。対立がなかったら、春陽会ではないと、開きなおって、いってしまってもいいかもしれない。創立会員たちの個性というのも、そういうところにあって、集まって、春陽会の個性となったともいってみたい。
 創立会員の多くも、実は、フランス派である。先輩である。西洋美術を学んだ挙句に、小杉放庵や森田恒友は筆墨絵画の大切なことを知った。西洋が嫌になって、日本がいいといいだしたと違う。学べば学ぶほど西洋は遠ざかるという感じのなかで、では、どうしたらいいか、悩んだ末の発見というか、自己発見をして、自分はもう、やれることしかやれない、それでいいと、開きなおったことだったと思う。疎外や挫折や沈思の後に、なけなしの自分を見つけたわけで、それから、筆墨絵画を描きだすまで、まだ遠い道のりがあったはずだが、そうして描かれた文人画、東洋画、日本画は、実は、そんな名前でよぶようなものでなくて、なけなしの自分が描いた何か、といったほうがよさそうだ。西洋との対立があって、自己発見した。その人の表現それ自体だ。
 また、岸田劉生と萬鐵五郎がいるが、2人は渡欧しなかった。だからかもしれないが、油絵の格闘のすごさは前代未聞、自己流、独善的で、岸田は、リアリズムを突きつめた果てに、「でろりの美」などというものにゆきついたし、萬は、前衛絵画思想をひとり歩きした果てに、万象に気韻生動ありなどといいだした。そうして、それぞれ、驚異的な文人画を描いた。彼らの文人画の母胎は、油絵である。好みだけで、油絵と文人画をいっしょに描いたのとちがう。油絵では、どうにも描ききれない余剰のようなものに、2人は気づいている。描くのは、表現より先に、自己探求だし、自己認識作業だと考えていたようだ。いつも、自分にむけて、対立的対抗的思考を働かせている。
 1930年代において、日本が蓄積した伝統のすばらしさを再評価するなどということは、春陽会の考えとは遠い。日本人の油絵を語って、にわかに新日本主義を吹聴した独立美術協会に、その再評価の件は、まかせたらいい。春陽会には、創立期からずっと、ヨーロッパと日本、油絵と伝統絵画との、その本質的な対立を克服する努力が存した。春陽会思想とは、克服の努力の総体をさしている。春陽会が見せる絵画群は、克服の努力の結果の表現だと知ってほしいと、絵たちが、ぼそぼそとつぶやいている。伝統評価などというのと、まったく異なる。春陽会の、そういう仕組みのなかでは、ヨーロッパ組の絵も、伝統につながった絵も、双方対立的に輝かねばならないようになっている。
 独立のことをだしたついでにいうと、1930年協会から独立美術協会へとつないできた創立のメンバーの大部分も、やはり、二科新人エリートだった面々である。みんな渡仏して、パリに蝟集してきた。彼らと、林、硲らとは、ほとんど同世代、つきあいもおこったろう。しかし、彼らは一体になって、決然と、1930年協会をつくったし、独立へと連帯して動いた。その自主独立精神は、春陽会フランス組と異なる。それもあって、同じとみえる「日本の油絵」の取りくみ姿勢も、おのずとちがったといえなくもない。独立では、自主独立が暴走し、日本人の油絵をかかげて、民族主義国家の旗ふりをしてしまったのだ。それは、春陽会はしなかった。



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