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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

戦争のとばくちに立って 1        原田 光


 春陽会では、1933年(昭和8)に、会員の硲伊之助と小山敬三が脱退し、翌34年には、6名の会員の、小林和作、木下孝則、青山義雄、林倭衛、鬼頭甕二郎、別府貫一郎と、会友の坂口右左視、田中万吉、岡田七蔵、大森敬助、橋本節哉が脱退している。会員でいえば、その3分の1が集中的に脱退したことになる。
 これらのうち、硲、小山、小林、林、鬼頭らは、1929年(昭和4)の第7回春陽会展で、滞欧作特別陳列という晴れ舞台を用意してもらって登場し、注目を集めた。また、木下、青山は、その時はまだ渡仏中だったが、木下は帰国後に出品をはじめ、青山は渡仏したまま出品しだした。それぞれ、いわばフランス組の、中堅にあたるべきメンバーであった。その彼らが、活動わずか数年で、それも、会に新風を吹かせて革新する画家たちと評価されだしたときに、同時的に集団的に脱退してしまった。どういうことだったのか。
 続いて、さらに、1935年(昭和10)には、文部大臣が管轄する帝国美術院の改組が発表され、その管理下にあった帝展ばかりでなく、在野の美術団体もあわせて、美術界全体に衝撃をあたえるという事態がおこった。春陽会も大揺れをした。そのために、山本鼎と山崎省三が脱退した。
 後で少しくわしく説明するが、この改組案は、在野美術団体から有力作家を選抜して、帝展の審査員に加えるというものだった。それによって、帝展の弊害を取りのぞくと説得をして、その実、帝国美術院を中心におき、美術統制を強行しようとする意図をのぞかせていた。「帝国美術院を権威ある挙国一致の指導機関となす」[註01]と、文部大臣松田源治は、新聞記者にむかって吹いた。この年2月の貴族院では、美濃部達吉の天皇機関説が激しく攻撃され、関連して、政府は国体明徴声明なるものを発し、ファシズム国家の暴走はいよいよ露骨だったが、松田の帝展改組案もそれに随伴をした。
 1933年から35年といえば、春陽会創立後満10年が経ったというときである。創立会員たちのにぎやかな活動から生じた対立や協調のなかから、他とは異なる春陽会固有の性格はあきらかに出ていたが、それが何で、その何を発展させ、何にこだわるか、次の10年は、継承と発展と深化となるべきときだったと思える。しかし、継承も発展もなし、戦争の時代の10年へと暗転していった。恐れ、自制して、制作も思索も逼塞せざるをえなくなる。
 渡仏組の脱退についても、帝展改組についても、田中正史の「それからの春陽会」にくわしい。ほとんど同じことを、繰り返して、僕はここに書く。田中が書いているのは、春陽会の歴史の本筋であるが、僕が書くのは藪にらみ的である。フランス組の脱退者代表の林倭衛と帝展改組にともなう脱退者としての山本鼎を主人公にして、彼らの側から、春陽会をのぞき見できないかと思ったのだ。

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