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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

それからの春陽会 5        田中 正史


◆国家統制に抗う


 春陽会にとっての第二の組織的な危機とされるのは、1933(昭和8)年の小山敬三と硲伊之助の退会、続いて翌年の小林和作、青山義雄、林倭衛、鬼頭甕二郎、木下孝則、別府寛一郎らの会員と他5人の会友の相次ぐ退会であり、結果として会員の三分の一を失うという大規模なものであったが、さらに1933(昭和8)年には、創立会員であるとともに、彼らにとっては『方寸』の時代から気心の知れた仲間であった森田恒友も、その早過ぎる死により失っている。また、1935(昭和10)年の文部省による帝国美術院改組の企ては、美術界に大きな混乱を引き起こし、その余波が春陽会にもたらした影響によって山本鼎、山崎省三、前川千帆が退会するという事態にも陥ってしまう。

 当時の文部大臣・松田源治によって画策され、俗に「松田改組」と称された帝展の改革案は、戦争に向けた挙国一致体制の先駆けとなるような、国が美術界を統制しようとする企みであった。従来の帝展で無監査とされていた画家たちの特権を剥奪し、その代わりに在野団体の有力な画家たちを取り込もうとする意図で、国粋主義的な精神論の観点から、主に日本画の部門を標的にしていたようだが、洋画の在野団体である春陽会にも大きな影響が及んできている。

 もともと、山本鼎は官展と在野展をまとめた総合的な展覧会を開催したいという意向を持っており、それは小杉放庵[註11]も同様であった。ゆえに、この帝展の改革案に対して、山本は新しい「帝展」が、自分たちが求めた総合的な展覧会になるのではないかという希望を抱いたのであろう。一方で小杉は、国が拙速で強引に進めようとしていたやり口に、自分たちの「美術」を統制しようとしているという圧力を、希望よりも強く感じたのではないだろうか。このとき、たとえば日本画家の竹内栖鳳なども、「咲き競ふ各流派の美術はいはゞ『七色の虹』です。処が新帝展は虹を一色に塗りつぶさうとしてゐる」「新帝展のやり方は競馬です『勝つ馬』を奨励してゐるやうなものだ、芸術は勝負ではない、文部省が勧進元となつて賭博を奨励してゐるやうなものです」という談話[註12]を報知新聞に発表している。栖鳳は官展側の画家であったが、ここで述べられていることは、在野の側の画家たちにとっても十分に共感できる意見だったと思われる。春陽会では若手の会友たちにも、帝展という官展の「アカデミズム」の作風に対する反感は強かったらしい。

 1935(昭和10)年5月28日に文部省が帝国美術院改組を発表すると、美術界は大騒動になったが、春陽会からは小杉放庵が帝国美術院会員に指名されており、6月6日に、足立源一郎、石井鶴三、木村荘八、中川一政らが集まって協議し、翌日付で帝国美術院改組に対する第一次の「声明書」を出した。このときは、帝国美術院という組織の本質的な在り方についての要望を述べただけで、具体的な行動については言及せず、4ヶ月後の9月、自分たちの求める総合展覧会の開催を提議した「帝国美術院展覧会第二部開催に対する試案」を発表する。文部省は、このような在野の側からの提議には全く反応することなく、11月29日には新帝国美術院第二回総会を開催し、春陽会では長谷川昇と山本鼎を参与に、足立源一郎、石井鶴三、木村荘八、倉田白羊、中川一政らを指定にと、一方的に選定してきた。


春陽会が新帝展問題について事務所から会員へ宛てた手紙の原本。

 これに対して春陽会は、二日後の12月1日に第二次の「声明書」を出して、帝展とは行動をともにしない立場を明確に表明するのである。12月4日には、帝展の参与と指定に選定された会員たちが待遇を拒絶することを決定。12月6日には、小杉放庵も帝国美術院の会員を辞することを表明した。この時期、山本鼎は大阪に滞在していたため、東京の春陽会での決定を知らず、帝展の参与の待遇を受けることを表明してしまったことで、会の方針に背いた立場となり、退会にまで至ったのだとされる。創立会員でありながら、すでに会務の第一線を退いていたための「悲劇」なのかもしれないが、帝国美術院会員を辞した小杉放庵とは逆の結果ながら、いずれも潔い進退の処し方を示したといえよう[註13]。

 帝展の改組は、とくに竹内栖鳳を中心とした京都の日本画家たちからの反発が激しく、混乱を極めるうち、結局、この年に改組された新しい「帝展」は開催されず、翌年の1月には改組を提唱した松田源治が心臓麻痺を起こし、急逝してしまった。後任の文部大臣である平生釟三郎は事態の収拾を図り、1936(昭和11)年6月4日に、文部省が展覧会改革試案(文展招待展・無鑑査展実施案)を発表する。この展覧会改革試案に対し、春陽会は 総合展覧会を支持する立場から、一旦は賛成するが、文部省とのさまざまな折衝の結果、帝展が改組された新たな展覧会には不参加の方針を採った。

 最終的には、翌1937(昭和12)年に帝展が「新文展」として新たなスタートを切ることとなり、今度は各在野団体の代表者を集め、この代表者たちによる会議の決定をもとに基軸が組み立てられるようになる。すなわち、帝展改組のときのように、国が在野団体から恣意的に会員を釣り上げるのではなく、各団体が審査員を送り込んで運営できるかたちになったことで、春陽会内部の意見も軟化し、第2回展から新文展に木村荘八、中川一政、水谷清、岡鹿之助らを審査員として送り込んだ。これにより、かろうじて、春陽会は在野団体としての面子を保って事態を収束させることができたが、しかし、戦争へと向かう時代の急激な流れは美術家たちの自由な思いを強く圧迫してゆくことになる。

 1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件から「北支事変」として始まった日中戦争は、次第に泥沼化し、さらに英米との開戦の気運が高まると、国による物心両面にわたる締め付けが強化され、美術界への統制も積極的に行なわれるようになった。1940(昭和15)年には、美術団体における相互の連絡を図ることを目的に、一水会、二科会、東光会、独立美術協会、旺玄会、太平洋画会、光風会、春陽会、新制作派協会を役員団体として、美術団体連盟が結成され、のちに白日会、日本版画協会、日本水彩画会、第一美術協会、春台美術会、美術創作家協会、美術文化協会も加盟する。太平洋戦争中の1942(昭和17)年に美術団体連盟は解消されて、新たに美術家連盟が結成されるが、これには春陽会から木村荘八が加わっており、統制された画材の配給などに関わった。


専門家用絵具級別證票を貼る美術家連盟会員出勤奉仕隊。

 木村荘八は、自らも含めた美術家連盟の会員たちが絵具工業組合に集められ、配給用の絵具に検査證票(シール)を貼る作業をさせられている光景を、冷徹な視点で淡々と記録しており[註14]、持ち前の諧謔性から、些か面白がっているようにも感じられるが、美術家たちにとっては厳しい時代であったことはまちがいないだろう。1943(昭和18)年には、日本美術報国会が設立され、木村と石井鶴三が役員を務めることになった。また、春陽会からは国盛義篤、鳥海青児、原精一、上野春香が、従軍画家として中国や南アジアへ派遣されている。

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