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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

それからの春陽会 1        田中 正史


◆岸田劉生と梅原龍三郎の退会と、萬鉄五郎の死


 創立時の客員であり、その後は会員として存在感を示していた岸田劉生が、森田恒友や山本鼎、長谷川昇らとの確執によって、梅原龍三郎とともに脱退したことは、発足直後の春陽会にとって最初の大きな危機であった。

 そもそも、春陽会の創立を大まかに捉えると、院展洋画部を連袂脱退した画家たちに、草土社の画家たちが加わるかたちで行なわれたと理解される。院展洋画部の画家たちが、新たな団体展を立ち上げても、当時の状況では、自分たちだけでは総合的な制作力が心許ないかもしれないという自覚のもと、制作力の旺盛な若い画家たちを計画的かつ積極的にスカウトしてきて、新しい団体が発足したのであった。今関啓司や山崎省三、石井鶴三といった院展の研究所で頭角を現わしていた若手の画家たちと、木村荘八や椿貞雄ら、草土社の会員でありながら、院展にも出品していた画家たちのために発表の場を確保してやらなければという、同人たちの責任感もあったようである。村山槐多も存命であったなら、おそらく、今関や山崎とともに春陽会に出品することになっていたであろう[註01]。

 新しい団体の大きな看板として梅原龍三郎と岸田劉生を引き込んだのは、二科会への対抗も意識してのことだったようである。当初の思惑どおり、梅原、岸田、そして、フュウザン会から二科会にも出品していた萬鉄五郎などは、そのための格好の戦力となったはずなのであるが、一方、事前から危惧されていたように、第1回展の審査時における岸田の独断的な態度は目に余るものであったらしい。

 はじめ、森田恒友が岸田劉生の態度に憤慨し、それが山本鼎に伝染し、さらに長谷川昇へと影響が及んだことで、山本や小杉未醒、木村荘八らが協議を重ね、どうにか善後策を講じようとしており、第2回展からは梅原龍三郎をはじめ、岸田、森田を「名誉会員」として鑑別審査には参加しないような仕組みをつくったが、結局、1925(大正14)年4月に岸田と梅原が脱退してしまうのである。

 草土社から春陽会に参加した画家たちでは、2年後には椿貞雄も脱退するが、以前から山本鼎の世話になり、また、この騒動の中で小杉未醒とも親交を深めていた木村荘八や、東洋趣味への関心から、同じく小杉と親しくなっていた中川一政は残留し、その後、春陽会を牽引して行くような存在となった。

 岸田劉生の脱退については、春陽会第3回展の名古屋展が開催された初日の招待日に、「別れ話を清くせん」と岸田が京都から名古屋に来て、大須観音の境内で小杉未醒と山本鼎、中川一政、木村荘八との4人で昼飯をともにしたとされ、この会合について小杉は、「話はさやうに不快ならず 岸田亦好箇の人物と云ふべし」という感想を『日記』[註02]にのこしている。さらに、1942(昭和17)年には、それまでに物故していた森田恒友、倉田白羊、萬鉄五郎に岸田を加えた4人を対象にした法要が、春陽会の主催によって、谷中の全生庵で行なわれたりもしていることから、脱退を余儀なくしたとはいえ、「岸田劉生」という存在は、春陽会の歴史にとって重要な意味を持っていたといえるのだろう。

 ところで、注目すべきは、同じく草土社にいた河野通勢の春陽会への関わり方である。他の草土社系の画家たちのように創立当初から春陽会に加わったのではなく、第2回展にエッチング手彩色の作品4点を出品し、これは春陽会で初めての版画作品の出品であったが、春陽会賞を受賞して、翌年、岸田劉生が脱退する第3回展で「無鑑査」に推挙され、さらに翌1926(大正15)年の第4回展で鬼頭甕二郎、木下孝則、小林徳三郎、硲伊之助、林倭衛といった画家たちとともに会員に推挙されるのであった。しかし、翌年の1927(昭和2)年には、早くも退会してしまうという経緯である。

 これは、春陽会を退会後に発表の場を失っていた岸田劉生を再び表舞台に引き出したいという、武者小路実篤の念願によって実現されることになった「大調和展」が、1927(昭和2)年の11月に開催されることにも関係していたのかもしれない。

 武者小路実篤をはじめとして、高村光太郎や志賀直哉、長與善郎、千家元麿、犬養健、倉田百三、柳宗悦らが監査委員に名前を連ねた大調和展は、広義の意味での「白樺派」の再結集を図ったものだと理解できる。1922(大正11)年の第9回展を最後に草土社が自然解消してしまったあとで[註03]、河野通勢や椿貞雄が、このようなメンバーを揃えた大調和展の設立を、草土社の精神を受け継いだ「再興」と捉え、改めて岸田劉生の下に集まろうとしたのであれば、納得できる流れであろう。

 一方で、たとえ岸田劉生が居なくなったあとでも、河野通勢は、大調和展の設立までは自らの作品を発表する場として春陽会がふさわしいという意識を持っていたらしいことも興味深い。

 たしかに、創立してから2回目の展覧会で、初めて出品された版画の作品に会の名前を冠した賞を与えてしまうのは、春陽会ならではの特筆すべき柔軟性といえる。岸田劉生に心酔していた椿貞雄も、岸田に引き続いて直ちにではなく、むしろ、河野通勢にも遅れて春陽会を退会しているのは、居心地の悪さを感じる場所ではなかったということを示しているのではないだろうか。木村荘八や中川一政、さらには、とくに岸田と親しくしていた横堀角次郎[註04]たちが、岸田との個人的な付き合いが壊れることを覚悟してでも春陽会に残留したことは、その組織としての在り方や会員同士の雰囲気などが自らの画業の今後の展開に望ましく作用するだろうことを十分に予期しての行動だったと思われる。そして、この背景には、院展洋画部の同人だった画家たちが温めていた「各人主義」の理念が存在していたのもたしかであろう。岸田について行くことで、以前と同じことを繰り返したくないという各人の思いは、その後の春陽会での活躍により、見事に花開くことになる。

 岸田劉生と梅原龍三郎、さらに河野通勢や椿貞雄らの退会とともに、春陽会にとって痛手だったのは、萬鉄五郎の死であった。若い頃にはフュウザン会で岸田とともに活動し、草土社には加わらなかったが、二科展で意欲的な作品を発表していた萬は、森田恒友の勧誘により、客員として春陽会の創設に参加する。これとほぼ同時期に、鉄人会を起こして南画の研究を進めており、それまでのフォーヴィスム的、キュビスム的な傾向から南画の精神性までを統合したような、独自の「日本の油彩画」の創造を目指した作品を積極的に制作しており、春陽会には、本人にとっての「春陽会時代」と称されるくらい、数多くの作品を出品して、審査にも能動的に参加していた。ヨーロッパにおける最新の傾向を取り入れながら、東洋の伝統としての南画の精神の在り方も自覚し、新しい境地を自らのものとしようとする旺盛な制作力は、岸田と梅原が抜けたあとの春陽会で最も期待されるべき特性であっただろう。



第6回展会場には前年に亡くなった萬鐵五郎の遺作展示室が特設され、
代表作である《裸体美人》《もたれて立つ人》など80点が展示された。

 萬鉄五郎の結核による早すぎる死は、梅原龍三郎と岸田劉生、河野通勢、椿貞雄たちの退会と合わせて、組織的な構造に関わる危機であったといえる。創設前から旧・院展洋画部の同人たちが危惧していたように団体としての総合的な制作力が不足し、ややもすると趣味性のまさった作品ばかりが並ぶ展覧会になる恐れもあったのであり、それは、すでに一般からの出品点数が帝展や二科展に比べても遜色なくなっていた規模の団体展として許容され得るものではなかった。
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