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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

それからの春陽会 2        田中 正史


◆林倭衛と小山敬三、硲伊之助らの活躍と退会


 そして、春陽会がこのような状態を免れたのは、フランスからの「帰朝画家」であった林倭衛や小山敬三、硲伊之助らが、構造的なフォルムを組み合わせた重厚で合理的な画面構成と、明快な色彩把握による強く迫力のある表現の作品を大量に出品するようになったからだと考えられる。

 1922(大正11)年1月の春陽会の発会は、フランスに滞在中の画家たちの間でも話題になっており、その後にフランスへ渡った足立源一郎や長谷川昇も積極的な勧誘を行なったらしい。同年3月には、現地にいた小柳正、小山敬三、硲伊之助、林倭衛らを客員として迎えることが発表されていたが、最終的には小柳正を除いた以外が会員となる。そのうちでは、小山がいちばん早く、1925(大正14)年に、退会する岸田劉生や梅原龍三郎と入れ替わるかのように会員に推挙されており、続いて翌1926(大正15)年、鬼頭甕二郎、木下孝則、小林徳三郎、硲、林が河野通勢とともに会員に推挙された。


1929年(昭和4)の「7周年を祝う集い」より、前列右より加山四郎、今関啓司、小杉放菴、水谷清、栗田雄、伊藤慶之助。後列右より倉田三郎、川端彌之助、石井鶴三、中川一政、鳥海青児、国盛義篤、横堀角次郎、木村荘八、足立源一郎、小穴隆一。

 次いで、第5回展から設置された「挿絵室」も、春陽会創設時の会員たちの個性的な経歴に関係していたといえるのかもしれない。『大菩薩峠』の石井鶴三、『西遊記』の小杉未醒、『富士に立つ影』の河野通勢と木村荘八と山本鼎など、いずれも、話題となった著名な刊行物の挿絵を担当した画家が当初から会員に名を連ねており、あるいは中川一政も挿絵や本の装丁に手を染めてゆくことになる。山本や小杉、森田恒友、倉田白羊といった春陽会の創立会員たちの4人は、かつて、石井柏亭、平福百穂、織田一磨、坂本繁二郎らとともに美術雑誌『方寸』の編集同人を務めており、出版業務にも通じていた。春陽会の創立までの経緯を人間的なつながりで見ると、『方寸』は「院展」の洋画部を遡るルーツだったともいえよう。

 また、これらの画家たちは、いずれも文筆に優れており、「美術」と「文学」の関係性などについても十分に考察を深めていた。たとえば、石井鶴三は中里介山に対して論争を挑み、「挿絵」は「文学」の附属物ではなく、「絵画」として独立したジャンルだという主張を明確に文章で表明している。春陽会では、このような「絵画」の在り方についても根源的なところから捉え直した思潮を、展覧会という場で総合的に展開してゆくような活動を積極的に行なえていたのであった。

 そして、もう一つの柱ともいえる版画についても、春陽会の成り立ちに絡む歴史的な事情が大いに関わってくるのである。創立会員の一人であり、組織のオーガナイザーとして才能を発揮していた山本鼎は幼い頃から版画職人・桜井暁雲(虎吉)のもとで住み込みの徒弟として修業し、9年間の年季奉公を終えたあとの1902(明治35)年に、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した。在学中の1904(明治37)年には与謝野鉄幹が主宰する雑誌『明星』に、自画・自刻・自摺による当時では画期的な「創作版画」として、煙管を手に海辺を望んで佇んでいる漁師の姿を、生活感にあふれたリアリズムで表現した《漁夫》を発表。この作品は、石井柏亭によって「刀画」と命名されて大きな話題を集め、山本は従来にない新しい版画を創造した、新進気鋭の版画家として注目されることになる。

 1907(明治40)年、山本鼎は創作版画を奨励して、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的に石井柏亭、森田恒友と美術雑誌『方寸』を創刊した。前述のように小杉未醒や倉田白羊も加わり、このときからの、石井を除く4人の交友が、院展洋画部を経て春陽会にまでつながってゆくのである。小杉や森田、あるいは石井鶴三などは、その後、彫師の伊上凡骨と組んで『日本風景版画集』を刊行するなどしており、春陽会には版画を積極的に受け入れる下地が十分に整っていたということなのであろう。さらには、「帰朝画家」であった硲伊之助も版画には深い造詣があり、多くの実作を行なっていた。

 山本鼎はまた、『方寸』の活動が終わったあとも、1918(大正7)年には戸張孤雁らと日本創作版画協会を設立するなど、日本画や油彩画と同列の存在として版画の独自性を主張し、創作版画が隆盛する基礎を築く。「版画」という言葉自体、山本の造語であるともいわれている。春陽会は、まず、1927(昭和2)年の第5回展で、その前年に会員となったばかりの林倭衛の特設展示を行ない、さらに、1929(昭和4)年の第7回展でも、鬼頭甕二郎、小山敬三、硲伊之助、林に、小林和作と長谷川昇を加えた滞欧作品特陳を行なっている。春陽会としては、草土社風の作品に会場を席巻されていた反動として、西欧からの新しい美術思潮を体現した、重厚でありながら明快な作品のイメージを前面に押し出し、岸田劉生や梅原龍三郎が脱退したあとの新たな展開に向けての立て直しのため、会の雰囲気を大きく変えたいという意図があったのではないかと思われるのであるが、その後、一般の出品者数も増加しており、この転換は十分に成功したといえるだろう。

 ただし、このような方向性は、春陽会の中に根強く息づいていた日本的、あるいは東洋的な精神を尊重する傾向と衝突することにもなった。岸田劉生たちとは異なるアプローチから日本や東洋の伝統に向き合い、さらには、自らも水墨画や日本画を制作し、あるいは「日本的な油絵」の確立しようとしていた画家たちがいたのである。「油絵具次第に遠きものに見え 水と墨との騰蒸眼前に在る心地す」[註05]などという思いから、制作の主体を油彩画より日本画へ移しつつあった小杉未醒や、ヨーロッパで得たリアリズムを水墨画の上に生かした作品に新たな境地を見出していた森田恒友、江戸の情緒にあふれた芝居や風俗などに関心を向け、積極的に自作のモティーフとしていた木村荘八、「老荘会」[註06]という研究会に加わって中国の古典に親しみ、のちに水墨画も描くようになった中川一政といった人々も、当時の春陽会では十分な存在感を持っていたのであった。


東京府美術館の前で10周年記念撮影。前列右より小杉放菴、鹿島龍蔵、中川一政、今関啓司、足立源一郎、石井鶴三、林倭衛、鬼頭甕二郎、硲伊之助、山崎省三。後列右より森田恒友、横堀角次郎、小林徳三郎、小山敬三、山本鼎。

 これらの画家たちは、小山敬三や林倭衛、硲伊之助らよりも年長の先輩格であり、各人主義の原点を踏まえると、とくに、若手の作品の在り方について意見することもなかったと思われるが、会全体の雰囲気が自由闊達であればこそ、遠慮もなかったのであろうか。結局、1933(昭和8)年5月に小山と硲が、翌1934(昭和9)年2月から11月にかけての時期に小林和作、青山義雄、林、鬼頭甕二郎、木下孝則、別府貫一郎らの会員と、会友の何人かが相次いで脱退し、全会員の三分の一を失うことになったのである。これは、春陽会が創設されてからの、第二の組織的な危機であったといえるかもしれない。

 ところが、春陽会の多様性は、このような危機的な状況を乗り越えることにも有効に作用してゆく。たとえば、春陽会では第4回展から素描室と水墨室を設置し、第5回展では挿絵室を設置、1928(昭和3)年の第6回展からは版画室も新設した。そして、これらの活動の中から、会としての危機を脱するための新しい展望が開けてくるのである。

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