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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

それからの春陽会 4        田中 正史


◆春陽会と版画


 このように、版画に対する関心が深く、実際の制作に自ら手を染めていた画家たちが創立した春陽会で、版画の出品が多くなるのは必然のことだったのかもしれない。

 前述のように、春陽会に版画が出品されたのは第2回展が最初であり、河野通勢によるエッチング手彩色の作品4点と、高見澤遠治の彫りによる木村荘八の木版画の作品1点であった。このうち、河野のエッチング作品は、三岸好太郎と横堀角次郎の油彩画の作品とともに春陽会賞を受賞している。このときはまだ、版画も油彩画や素描などと同じ壁面で一緒に展示されていたようであるが、1926(大正15)年の第4回展で素描室が設置されると、版画は同室に展示されるようになり、1928(昭和3)年の第6回展のときからは独立した版画室が設置され、フランスでパリに在住していた長谷川潔が会員に迎えられるのであった。

 横浜で裕福な家に生まれた長谷川潔は早くに両親を亡くし、美術を志して中学校を卒業後に葵橋洋画研究所で黒田清輝から素描を、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二から油彩を学んでいる。その後、文芸同人誌『聖盃』に加わって、1913(大正2)年に同誌が『仮面』に改題されると、表紙や口絵を木版画で制作したほか、1914(大正3)年頃には来日中のバーナード・リーチからエッチング技法の指導を受け、日夏耿之介や堀口大學の本の装幀も行なった。1918(大正7)年、版画技術を究めるためにフランスへ渡り、1923(大正12)年からサロン・ドートンヌなどに作品を出品する。1925(大正14)年にパリで初の版画の個展を開催して高い評価を得、翌年にはサロン・ドートンヌの版画部の会員となった。以後、生涯を終えるまで日本に帰国することなく、さまざまな銅版画の技法に習熟し、とくにメゾチントの技法を自らの独特な様式として復活させ、彼地においても版画家としての確固たる地位を築くことになるのである。


第8回展の目録に使用された長谷川潔の版画作品。

 このとき、長谷川潔は二科会からも勧誘されていたという。ちょうど、フランスに滞在していた長谷川昇が、少し早くに声をかけていたということで春陽会の方を選び、自宅をパリの春陽会連絡事務所とし、1980(昭和55)年に亡くなるまで会員であり続けた。

 その前後では、第5回展で古川龍生が初入選しており、第7回展には33点の版画が展示されて、前川千帆と前田藤四郎が初入選し、永瀬義郎が春陽会賞を受賞している。第8回展では長谷川潔の作品14点が「特別陳列」として展示され、永瀬と前川が無鑑査になり、さらに、1940(昭和15)年になると、その前年に春陽会賞を受賞して、会友になっていた前田が会員に推挙された。1930年代から40年代にかけての時期に、前川や永瀬が退会し、創作版画の系統に連なる作家たちの影が薄くなったが、版画室が設置されて以来、版画の出品点数は増加しており、戦後しばらくすると、北岡文雄や駒井哲郎を迎え、「版画部」として独立し、版画家たちだけで独自の審査を行なう体制の整備につながってゆく。

 版画にしても、あるいは素描、水墨、挿絵にしても、油彩に限らない幅広いジャンルや技法について大きな関心を持ち、絵画や彫刻などと他の芸術分野との関係性についても考察を深めることのできた春陽会の草創の画家たちは、「西洋画」と「東洋画」の根源的なちがいについての問題を提起し、自身の洋画家としての存在価値までをも揺さぶるような過激な思考を胸の奥底に秘めながら、それでも表面的には穏やかに、第一線から退いて、若手に主導権を譲るかたちで多様性を尊重する方向性を選んだ。このような肚の据わった凄みのようなものが、会の存続にも関わる幾多の危機をうまく乗り越えさせてきたのではないだろうか[註09]。

 二科会や一水会の結成に参加した洋画家の石井柏亭は、二科会に比べたときの春陽会の在り方を、創立者が次々に辞めていて、のこった人たちも会の運営を後進に任せ、作品の鑑査でも、あまり発言していないようだと分析し、「古老がどこかで睨みを利かして居ることが会のためになるのではないかと思ふ」[註10]と批判的に捉えている。

 『方寸』の時代には山本鼎や森田恒友、小杉未醒や倉田白羊の仲間であり、石井鶴三の兄でもあった石井柏亭は、その後、感情的な行き違いから袂を分かっていたので、些かは含むところもあったのかもしれないが、これについては、一般的には納得できる意見だといえよう。

 しかし、春陽会の真価は、まさに、このような在り方にこそ依拠していたのではないかと思われる。

 草創の画家たちが長老として、会の理念を体現する責任を負いながらも、実務には口を挟まず、若手たちが危機的な状況に煩悶しながら、自らの表現を突き詰め、多様な行動をとるなかで自然な新陳代謝が促され、会に新たな展望と活気をもたらしてゆく。

 そのような構造があればこそ、たとえば、小山敬三、硲伊之助、林倭衛らの画家たちが滞欧作品の特陳などを行ない、華々しい注目を集めていた背後で、素描、水墨、挿絵、版画の各ジャンルが着実に力をつけることができたのであろうし、また、油彩においても実力のある新たな画家たちが育ってくる。このあたりの舵取りは、実に、巧妙に行なわれており、当時の入賞者の顔ぶれなどを見ると、しっかりと将来を見通した上、作品の審査を通じて次世代の新しい才能を育んでいた。

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