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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

それからの春陽会 8        田中 正史


◆註


01|
山本鼎の従弟で、幼いころから絵画や詩の制作に才能を発揮していた村山槐多は、18歳のときに画家を志して上京し、小杉未醒の家に寄宿しながら、日本美術院研究所で学んだ。前年に、パリに遊学中の小杉が、山本から村山の面倒を見てほしいと依頼を受けていたのである。村山の最初の入選は二科会だったが、その後は日本美術院習作展覧会(その後、日本美術院試作展覧会)に出品を重ね、日本美術院研究所で出会った同年代の山崎省三と今関啓司とともに、「美術院の若き三銃士」とうたわれていた。1917(大正6)年には院友となり、1919(大正8)年に22歳の若さで亡くなってしまったが、もし、命を長らえていたらば、当然、山崎や今関とともに春陽会に迎えられていたと思われる。

02|
小杉未醒の『日記』1925(大正14)年4月12日付の記述。
小杉未醒の『日記』は、ヨーロッパに遊学中の1913(大正2)年9月21日から始められ、日本に帰国する同年12月15日で終わったあと、その後、1914(大正4)年9月29日から再開し、亡くなる前年の1963(昭和38)年末まで、ほぼ半世紀にわたって書き続けられた。
A5判のクロス貼ノートとB5判の大学ノートの全25冊で構成され、現在、その全てが、小杉放菴記念日光美術館に所蔵されている。日本の近代美術史を裏付ける貴重な内容が記載された資料であるが、その分量が膨大であるため、公刊はされていない。

03|
春陽会の成立を伝える、1922(大正11)年1月15日付『読売新聞』日曜附録に収められた談話で、岸田劉生は、春陽会の展覧会が始まったあとも、「では、草土社はどうするかと言ふに、この会とは別に、矢張り、冬の暮れにでも展覧会を開いて行かうと思ふ」と、並行して草土社を存続させてゆく意向を示していたが、同年の9回展まで活動したのちに、岸田が関東大震災の影響を避けて京都に移ったこともあり、自然解消となった。
岸田劉生の談話は、『春陽会七〇年史』(編集:春陽会七〇年史刊行委員会、発行:社団法人春陽会、製作・発売:美術の図書 三好企画)77頁に再録。

04|
横堀角次郎は、草土社の創立同人11名中に名を連ね、以後、最後の第9回展まで欠かさず出品を続けた画家であり、同級生の椿貞雄とともに、岸田劉生の影響を強く受けていた。岸田が鵠沼に住むようになると、自らも近所に移り住んで親しく行き来し、関東大震災のときには、岸田の一家の避難を助けたりもしたという。そのような横堀であったが、震災後、京都へ移住する岸田の誘いを断ったことなどから、岸田との仲は決裂してゆくことになった。

05|
小杉未醒の『日記』1920(大正9)年8月23日付の記述。

06|
「老荘会」は、小杉未醒が主宰し、在野の漢学者・公田連太郎を講師に、中国の古典を講読する勉強会で、中川一政をはじめとし、森田恒友、足立源一郎、石井鶴三、木村荘八、岡本一平、加山四郎、水谷清、鹿島龍蔵ら、春陽会の画家たち、あるいは関係者が多く参加しており、直接の美術教育ではないが、初期春陽会での後進指導の一端を担っていたといえるかもしれない。

07|
森田恒友「春陽展の素描作」『みづゑ』第二二〇号、1923年。前掲『春陽会七〇年史』82〜83頁に再録。

08|
小杉放庵「再び春陽展雑感」(『放庵画談』中央公論美術出版、1980年)よりの抄録が前掲『春陽会七〇年史』83頁に掲載。

09|
前掲『春陽会七〇年史』372〜373頁に抄録されている、加山四郎「小杉先生」(『春陽』第十・十一号、1964年)には、そのような「草創の画家」である小杉放菴の振る舞いが、感謝の念をもって紹介されている。

10|
石井柏亭「[春陽会三十年 外から観ていた春陽会の変遷」(『春陽会帖』第三十号、1953年)の抄録が前掲『春陽会七〇年史』277〜278頁に掲載。

11|
洋画家・小杉未醒は1920年代の後半、昭和に入った時期から、日本画の制作を専らとするようになり、「未醒」という雅号を徐々に「放庵」と変えていった。当時は「放庵未醒」という落款を記した作品もある。さらに、1930年代の半ばころから、「放庵」の「庵」の字を、正字であるという「菴」に変えて「放菴」と記すようになり、最終的には「放菴」として生涯を閉じた。
本文中では、記述の対象とする時期によって、「未醒」「放庵」「放菴」を使い分ける。

12|
1936(昭和11)年1月31日付の「報知新聞」に掲載された竹内栖鳳の談話。
「帝展再改組の嵐強し」「動揺の美術界に栖鳳画伯の爆弾」「新帝展支持派へ宣戦布告」「”新帝展は競馬だ”微笑む温容から斬人の言葉」「記者との一問一答」などの見出しが並んでいた。

13|
ただし、小杉放菴の『日記』によると、山本鼎の退会については、本人の経済的な困窮による、別の会員との感情的な行き違いなども原因になっていたようである。小杉は、そのあたりの事情を飲み込み、長谷川昇や山崎省三の退会や、自身の帝国美術院会員の辞任も含めて、春陽会の結束に影響が及ぼさないために、うまくタイミングを調整し、いずれの進退も潔くできるよう、苦心しながら処理したことも『日記』から伺える。
この間の帝展改組をめぐる事情について、小杉放菴の『日記』は第一級の史料であり、今後、さらなる精査が必要だと思われる。

14|
木村荘八「連盟公報(五)」(『新美術』昭和十八年二月号、1943年)の抄録が前掲『春陽会七〇年史』 172頁に掲載。

15|
1922(大正11)年1月に春陽会が発足した当初は、足立源一郎、梅原龍三郎、倉田白羊、小杉未醒、長谷川昇、森田恒友、山本鼎の7名が会員で、岸田劉生や萬鉄五郎をはじめ、木村荘八、中川一政、今関啓司、石井鶴三、椿貞雄、山崎省三たちは客員とされていた。
翌1923(大正12)年5月に第1回展を開催後、12月になってから、客員制度は廃止され、客員であった画家たちは会員になる。

16|
倉田三郎、藤本韶三「対談 春陽会創立六十年間の歩み」(『三彩』 428号、1983年)における倉田三郎の発言。前掲『春陽会七〇年史』175〜176頁に抄録。

17|
今泉篤男「春陽会」(『藝術新潮』昭和三十年七月号、1955年)よりの抄録が前掲『春陽会七〇年史』の 177頁に掲載。

18|
三雲祥之助「春陽会五十年」『春陽帖』第五十回展号、1973年。前掲『春陽会七〇年史』 176〜177頁に再録。

19|
1993(平成5)年4月19日に収録された、北岡文雄による談話。前掲『春陽会七〇年史』 299頁に掲載。

20|
1993(平成5)年4月12日に収録された、南大路一による談話。前掲『春陽会七〇年史』 298頁に掲載。

21|
その他にも、1926(大正15)年には、羽仁もと子と羽仁吉一の夫妻が創設した自由学園の美術教師に足立源一郎、石井鶴三、木村荘八、山崎省三、山本鼎が揃って就任している。
中川一政は、1927(昭和2)年に「山人会」を主宰しており、これも「画談会」とともに「春陽会洋画研究所」につながってゆく。
また、山本鼎は1928(昭和3)年に、「芝絵画彫刻研究所」を開設している。

22|
戦時下、空襲の最中にも開講されていた「春陽会教場」は、参加者たちにとっては、強く記憶にのこる、意義深い体験だったようで、前掲『春陽会七〇年史』207〜212頁に、中谷泰、川隅路之助、松村禎夫、北岡文雄、上原欽二、宮田武彦らの談話や、会誌に掲載した文章がまとめて再録されている。
「春陽会教場」は、1945(昭和20)年3月の東京大空襲により継続が困難となったため、その年の2月の講座を最後に休止されていたが、敗戦から一月後の9月15日より、同じくニコライ堂の関連施設を会場として、早くも再開された。


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