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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

それからの春陽会 6        田中 正史


◆新たな帰朝画家


 一方で、そのような苦難の時代にあっても、春陽会は組織の充実を図っており、それを担ったのは、岡鹿之助、高田力蔵、三雲祥之助ら、フランスからの「新たな帰朝画家」であった。

 帝展改組のあった1935(昭和10)年、フランスから帰国した三雲祥之助は春陽会に滞欧作を出品して入選する。1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、フランスに在住していた日本人画家たちが続々と帰国していて、岡鹿之助も最後の避難船でフランスを離れ、アメリカを経由して同年12月に日本へ引き揚げてきた。翌年、以前から親しくしていた加山四郎と水谷清の誘いにより、高田力蔵とともに春陽会に出品し、すぐさま会員に推挙されたのである。

 1930年代の初め頃から春陽会では若手の登用を進めており、1939(昭和14)年までに、鳥海青児や水谷清、国盛義篤、小穴隆一、若山為三、栗田雄、倉田三郎、伊藤慶之助、川端彌之助、加山四郎、森田勝などといった画家が会員になっていた。ここに、岡鹿之助と高田力蔵が加わったのである。そのすぐあと、同年中に版画の前田藤四郎が会員となり、引き続いて翌々年に上野春香、南城一夫、原精一が、さらに1943(昭和18)年には、山本鼎が会員に復帰し、新たに中谷泰、三雲祥之助、吉田達磨が会員となった。

 このあたりの会員たちが戦後になると春陽会の主要な存在となるのだが、それまでに、創立会員である長谷川昇が1936(昭和11)年に退会し、1927(昭和2)年に会員になっていた岡本一平も、これに続いている。1938(昭和13)年には倉田白羊が亡くなり、この時点で、創立会員で春陽会にのこっているのは、小杉放菴と足立源一郎の二人だけになっていた[註15]。のちに山本鼎が会に復帰するが、『方寸』の時代を知っているのは小杉だけになっており、会の歴史にとって大きな転換点となった時期といえるだろう。

 春陽会では設立の当初、小杉未醒の自宅を連絡事務所に長谷川昇の会計係という体制で会務を処理してきたが、1928(昭和3)年に、栗田雄を補佐として足立源一郎に事務所が引き継がれ、1931(昭和6)年には会務委員の制度が定められた。最初の委員には、足立源一郎、石井鶴三、今関啓司、木村荘八、中川一政、硲伊之助、林倭衛が就任し、以後、メンバーの異動を重ねながらも、中堅の会員たちによる確固とした集団合議体制を続けている。

 岡鹿之助は会員になった翌年に、早くも会務委員に加わっており、作品ばかりでなく、事務能力についても評価されていたのだろうか。そもそも、岡は帰国した翌年に、第18回展に出品し、そのまま直ぐに高田力蔵とともに会員となっている。岡や高田を春陽会に勧誘した加山四郎や水谷清にしても、幾度かの入選や入賞を重ねたあとに会員に推挙されており、前例がないわけではないが、すでに当時としては異例な好待遇であった。

 これについては、1936(昭和11)年に会の事務所を足立源一郎から引き継いでいた木村荘八が、岡鹿之助が劇評家・歌舞伎作家・演出家・著述家である岡鬼太郎の実子だったということで、とくに気にかけていて、積極的にスカウトしようとする意図をもっていたのだと思われる[註16]。小山敬三や硲伊之助、林倭衛らに代わる新しい「帰朝画家」としての役割を、岡や高田力蔵、三雲祥之助たちに求める目論見もあったのではないだろうか。

 美術評論家の今泉篤男は、「春陽会にとって、岡鹿之助が加わった事は一つの転換期になったことが否定できないように見受けられる」と述べ、さらに「岡の作品にある緻密な構成や節度のある情感が、いままでの春陽会的なものとは恐らく異質的なものにさえ感じられた」[註17]と続けている。今泉によると、岡の作風は「長老の会員たちからはたいして認められなかったようだ」ということであるが、すでに会の運営実務は名実ともに、木村荘八らより下の世代に主導権が移されており、とくに対立をするようなことはなかったと思われる。

 岡鹿之助が会員となり、ついで会務委員にもなって、後輩である三雲祥之助を春陽会に誘ったときには、次のようなエピソード[註18]があったという。

 1942(昭和17)年に三雲祥之助が銀座で個展を開催したとき、最終日に、岡鹿之助の案内で木村荘八をはじめ、加山四郎、水谷清、倉田三郎、高田力蔵が連れだって来訪する。それに感激した三雲は、すでに2年前、春陽会に滞欧作が入選していたが、改めて翌年の春陽会への出品を決意するのであった。そして、翌年の出品期限が迫ってきた時期、岡の自宅に招かれると、そこには木村、中川一政、石井鶴三、小杉放菴などの十数名が続々と現われて驚かされたというのである。以上の経緯を見ると、どのような画家を揃えて春陽会が活動してゆくかについて、木村の思惑を受け、むしろ、岡らの構想に従い、長老格の画家たちも積極的に協力していたということになるのかもしれない。


酒席で語らう三雲祥之助(左)と岡鹿之助(右)、藤井令太郎(中央)。

 また、それぞれの作品としても、前述の今泉篤男がいうところの、岡鹿之助の「緻密な構成や節度のある情感」や、三雲祥之助の「構成的な仕事のうちに伸びやかな作調を示」した闊達さなどというのは、小杉放菴や中川一政らの作風とも相性が悪くなかったように感じられるのである。

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