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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

それからの春陽会 7        田中 正史


◆春陽会の本質


 ただ、同時期の1942(昭和17)年と1943(昭和18)年には、鳥海青児や原精一といった萬鉄五郎に師事した画家たちが相次いで退会しており、これは岡鹿之助たちの作風が春陽会において主流になってゆくことへの反発もあったのではないだろうか。

 春陽会という団体は、決して地方性を軽視していたわけではなく、各地での研究会の充実など、むしろ、たいへん真剣に地方での活動に関与し、その活力を積極的に取り込もうとしていたように見受けられる。岡鹿之助にしても、長野県上田市を中心に活動していた研究会の講師を小杉放菴から依頼され、「鹿苑会」という名が付けられたその研究会を、亡くなるまで熱心に指導し続けた。しかし、それにもかかわらず、鳥海青児や原精一らが示した、日本の風土から発する生々しい「土着性」のような表現の部分は切り捨てられてゆくのである。このあたりの状況は、のちの春陽会の版画部について北岡文雄が、「国画会の棟方志功に代表される木版主体の日本的、民芸趣味的作風に対し、長谷川潔や駒井哲郎のモダンな、洗練されたきめの細かい版画を春陽会版画部の行き方にしました」[註19]という回想を記していることに重ね合わせると、当時の春陽会が岡らを擁して目指すことになった方向性が明確になるようで、いろいろと興味深い。

 さらに、戦後のことになるが、駒井哲郎が春陽会に初めて出品したとき、小杉放菴が、「これは審査するもんじゃねぇなあ、立派なもんだ」[註20]と高く評価し、春陽会の会員になったあとの駒井の最良の理解者が岡鹿之助だったことも考え合わせるなら、さまざまな多様性を包含したなかにも、草創の時期から一貫して存在していた造形の「基本原理」のようなものが、岡の加入により、改めて浮かび上がってきたようにも思えるのである。

 すなわち、日本的な情感や、日本・東洋の伝統的な精神性などを十分に踏まえながら、表面に現われる絵画としての構造は、あくまでも西洋画の新しい視覚の原理に則った作風といえようか。小杉放菴が1930年代の初頭から専ら描くようになった「日本画」作品も、実は、そのように制作されていたと理解することができるのである。だからこそ、小杉の作品は「日本画」であっても、洋画家たちの団体である春陽会に出品され続けた。これは版画や挿絵、水墨、素描などであっても同様で、技法の差異はあるが、造形の原理は共通しているのであり、この時期に至るまでの間に、「日本の油彩画」を目指してさまざまな傾向を取り入れ、あるいは切り捨ててきた経過のなかで、ようやくに収束してきた方向性だったのかもしれない。これ以降、目立って有力な退会者も出なくなっている。

 なお、このような流れにおいて、春陽会を際立たせていた特色としては、団体内部に開設された研究・教育機関の充実も挙げられるだろう。もともと、春陽会の前身である洋画部が存在していた再興院展は、「絵画自由研究所」の構想から始まり、「再興日本美術院研究所」として開院していた。小杉未醒と横山大観が作ろうとしていたのは、まず、研究団体なのであり、それを、公募も行なう展覧会団体として発展させてきたのである。春陽会の設立に際しても、このことは強く意識されており、ビュールタン(年報)の発行や、研究所の開設は当初から計画されていたという。

 春陽会の第1回展が開催された年の9月に起こった関東大震災の影響や、その他のいろいろな事情により、計画は先送りにされ、実際に「春陽会洋画研究所」が設立されたのは1929(昭和4)年の9月になってからであった。ただし、草土社から参加した木村荘八も同様の考え方を持っていたようで、春陽会が発足した直後の1924(大正13)年から、本郷森川町にあった自宅で「画談会」と称する研究会を開催している[註21]。

 当初の画談会では、近所に下宿していた横堀角次郎と鳥海青児が世話係のような役割を務め、草土社の系統の斎藤清二郎、川端信一、倉田三郎、土屋義郎、三岸好太郎と横堀が同人であった麓人社のメンバーや岩田栄之助、加山四郎などが、よく集まっていた。小杉未醒や倉田白羊、足立源一郎らが顔を出すこともあり、岡本一平が春陽会の会員になっていた時期があるからか、一度、岡本太郎が学生服姿で出席したこともあったらしい。

 木村荘八の若手の作品に対する批評は的確で、歯に衣を着せないきびしいものであったらしいが、参加者たちはみな、その意見に心服し、会自体は和やかな雰囲気で進行されて春陽会の同志意識の昂揚にも作用したという。画談会は、春陽会洋画研究所が開設されたあとも継続され、木村の死をもって終了することになった。

 春陽会洋画研究所は、春陽会の支援者の一人であった鹿島組の鹿島龍蔵の斡旋により、麹町の内幸町幸ビルディングに20坪あまりの部屋を確保し、1929(昭和4)年9月2日に開設される。一般人向けに石膏部、春陽会の若手出品者向けに人体部が置かれ、8週間の短期講習として夜間講習部も開かれた。50脚ほどのイーゼルが用意され、それを、午前、午後、夜間の3部で共用することで、各部30人の定員を設けていた。指導に当たったのは在京の会員であったが、その熱心な指導は評判を呼んで、土曜講習会、日曜研究部も開催され、1930(昭和5)年以降には、全国各地で「夏季洋画講習会」も始まっている。

 春陽会洋画研究所の第一期生としては遠藤典太、小栗哲郎、田中謹左右、南大路一らが在籍し、その後も荒木市三、伊川鷹治、佐藤篤郎、志村一男、角南松生、高木勇次、中谷泰、新沼杏一、原田武夫、原田平治郎、三井永一といった人たちが学んでおり、春陽会で活躍する若手画家たちが着実に育っていった。

 日中戦争が始まった1937(昭和12)年に、会の財政的な事情から閉鎖されるが、太平洋戦争が激化しはじめ、展覧会の開催も危ぶまれる状況になった1943(昭和18)年、画家による団体の本来的な在り方を求めることを目的に、原点を見つめ直すという意味だったのだろうか、中川一政が主導するかたちで「春陽会教場」が開講されることになる。

 春陽会教場は、上野韻松亭などの貸席を転々としたあと、神田のニコライ堂のロシア語教室を借りて開講されており、1945(昭和20)年の2月には閉鎖されるが、たいへん短い間ながら、そこで教えられた内容は実技に関わることだけでなく、中川一政、石井鶴三、小杉未醒、木村荘八、岡鹿之助、三雲祥之助らにより、日本・東洋の文化や精神の歴史、当時の美術界の状況、「マティエール」や「構図」についての理論など、座学での講義も行なわれていた。もちろん、実技の講習も充実していて、毎回、作品を持参することが必須とされ、「爆撃」にたとえられる、遠慮のない激しい批評は、学んだ画家たちに強烈な印象をのこしていたという[註22]。


1943年(昭和18)11月に上野韻松亭で行なわれた「春陽会教場」の発足に集った会員。前列右より加山四郎、伊藤慶之助、横堀角次郎、高田力蔵、若山為三、上野春香。後列右より前田藤四郎、小穴隆一、栗田雄、水谷清、小杉放菴、岡鹿之助、中川一政、南城一夫、川端彌之助。

 また、春陽会洋画研究所が閉鎖され、春陽会教場として再開されるまでの6年にわたる空白の期間も、木村荘八の自宅での画談会は続いており、春陽会の画家たちが、いかに研究や教育的な側面を重視していたかが伺える。

 草創の当初における岸田劉生や萬鉄五郎、小山敬三や硲伊之助、林倭衛をはじめ、その後の長谷川潔や岡鹿之助、高田力蔵、三雲祥之助の勧誘など、周到な計画に基づく、積極的な外部からの人材の登用が春陽会に発展をもたらした特色であることはたしかであろうが、一方で、内部での若手画家の育成制度の充実と、長老格から中堅の会員たちが熱心に研究を深めていたことも、組織としての重要な特質であったといえよう。そして、空襲の激しい最中にあっても維持され続けた、このような本質的な枠組みの存在が、戦後の春陽会の隆盛にもつながってゆくのであった。

(たなか・まさふみ/国立アートリサーチセンター主任研究員)


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