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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

春陽会の本質を形作るもの 1     入江観 × 土方明司


◆帰るべき日本という故郷


土方 初期の春陽会には、東洋的な雅趣に富んだ洋画というイメージがあります。もともと小杉放菴(未醒)は横山大観と「絵画自由研究所」の設立を計画していました。しかし1913年(大正2)に岡倉天心が亡くなり、大観はその遺志を継いで翌年に再興日本美術院を開院します。小杉もそれに加わり院展洋画部が創設されました。院展洋画部には足立源一郎や倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎、木村荘八、萬鐵五郎ら、春陽会の設立に大きく関わるメンバーが多数参加しています。次いで創設された彫刻部には石井鶴三もいました。

入江 僕は中川一政先生などを通じて、春陽会のオリジンは1915年(大正4)に結成された草土社にあると長らく思っていました。でも『春陽会七〇年史』の編纂に携わって、春陽会の歴史を調べていくと、院展洋画部が主導権をもって春陽会を築いてきたことがわかりました。もともと日本画を主軸とする院展とつながったことが春陽会の性格を形成するのに大きな役割を果たしました。院展洋画部を抜けて、春陽会の創立会員となった小杉先生は、渡仏した際にルーヴル美術館のメディシスの部屋で見たルーベンスの《マリー・ド・メディシスの生涯》について、こういうものとはまるでつきあいきれない、幸いにして私には帰るべき日本という故郷があったとつぶやいたそうです。逆にシャバンヌには西洋人としては平面性というか、ギトギトした部分がわりと少ない部分に親近感を持ったようで、それが小杉先生の立ち位置だったのでしょう。草土社と院展洋画部がどうつながったのかは定かではありませんが、「帰るべき日本の故郷」という言葉で考えてみると、草土社も土の匂いのするような油絵です。1940年(昭和15)に会員として迎えられた岡鹿之助先生は西洋のマチエールにこだわりましたが、その根底には日本の風土に根ざしたものがある、そういう点は岡先生にもつながっていますし、そうした流れは現在の春陽会まで脈々とつながってきていると思います。

土方 山本鼎は滞欧中に両親に宛てた手紙のなかで、「芸術上最高の運動に属する団結を成さんとの話しが熟して、各人社といふものが出来申候」(『春陽会70年史』67頁)と綴り、各人主義を尊重した各人社の構想が具体的になってきていたことがわかります。そこには小杉放菴を筆頭に倉田白羊や森田恒友といった院展洋画部の画家たち、そして熊谷守一や小川芋銭、坂本繁二郎の名も記されています。やはり院展洋画部の同人たちの間では、新しいものを作ろうとする気運があったようです。当時、一政にしても、劉生、梅原にしても東洋回帰の時代だったと思います。ですから、春陽会の設立当時の状況を考えると、東洋的な油絵を模索していた作家たちが集まったといえるのではないでしょうか。
 それから春陽会は風通しのよい会だと言われますね。放菴が「我々は各人主義の集団である」と語っているように、それぞれの個性を大事にする。そのルーツも院展洋画部に起因するところが大きいと考えられます。「日本画と西洋画とを従来の区別の如く区別せず、日本彫刻と西洋塑像に於いてもまた然り。自由研究を主とす、故に教師なし先輩あり、教習なし研究あり、というよい言葉がかかげてあった。研究室の室割も日本画、洋画、塑像、木彫と分かれて存在したが、各室自由に往来して研究するをさまたげず」(『春陽会七〇年史』p.66)と石井鶴三が記しているように、ある種の融通無碍さが院展洋画部の頃からあって、それは春陽会にも受け継がれていったように思います。

入江 実際に創立会員たちは油絵を描きながら同時に水墨画なども手がけています。小杉先生にいたっては晩年になると、そちらの比重が大きくなりました。それを転向と解釈されることもありますが、僕はそうではなく自分がやりたいものをやりたい方法で描いただけで、絵を描くという意味では転向でもなんでもなかった。そういうスタンスは春陽会の創立の頃からつながってきているでしょう。
 各人主義ということでいえば、僕らが出品している時には「各人主義」という言葉はまわりでは聞きませんでした。『春陽会70年史』を出した時に、ああ、各人主義だったのかとなったわけです。ただし、その言葉が意味するものは、本質として春陽会のなかに生きています。東京美術学校で学んだ山本鼎はやや特異な存在で、初期の頃の春陽会には美術学校出の人がほとんどいませんでした。昭和に入ってぼちぼちとそうした人たちも出品するようになりますが、美術学校とはずいぶん距離を置いて育ってきたという一面があります。

土方 春陽会では早い段階から素描室や版画室、舞台美術室など、他の会にはない多様な美術の在り方を紹介しています。挿絵などは春陽会が先見の明を持って紹介したといえるでしょう。石井鶴三などは挿絵が独立した美術であると論争までしています。

入江 今はどうかわかりませんが、当時は挿絵はやや低くみられていたと思います。そして、絵描きにとって挿絵は経済的な助けになります。それにしても春陽会の鶴三、一政、荘八のお三方が挿絵の価値を高めた点は事実でしょう。同時に挿絵によって春陽会の知名度も上がったという側面もあったでしょう。

土方 そしてその挿絵や素描、版画をひとつの美術品として見せる展示室を作りたいと考える情熱をもった画家たちが春陽会にはいたわけです。版画に関しては1905年(明治38)に山本鼎、石井鶴三が『平旦』という美術と文学の同人誌を創刊し、その連載のなかで鼎が版画という言葉を日本で初めて使いました。その後に刊行された『方寸』には放菴や恒友なども参加し版画に携わっています。挿絵、素描、版画という、当時の洋画家としてはあまり主流ではないものにも全方位で興味を持っていたことがわかります。

入江 春陽会の先輩方は油絵に固執せず、自分が面白いと思っておられるものは認めて、自ずから手がけてきました。これは自分がやったことだから皆さんにお見せするという姿勢で、油絵至上主義ではなかったといえるかもしれません。美術にたいして大らかな見方をもっていました。美術学校第一主義にならず、素人でも面白いと思うものは積極的に春陽展に入選させてきたところがあります。
 僕が春陽展に出品し始めた昭和30年頃、どうしてこんな素人のようなものを大事にするのか不思議に思ったことがありました。でも春陽会について深く知っていくにつれて、素人か玄人かというよりも描きたい気持ちがあるかどうかを大事にしていることがわかってきました。

土方 春陽会の特徴として、稚拙さといったものが重んじられていて、それは文人画気質にもつながります。審査の場などで強くそれを唱えたのが岸田劉生で、たしかに春陽会を目指す鳥海青児や三岸好太郎といった当時の若手はそれにそうような絵を描いていました。
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