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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

春陽会の本質を形作るもの 2     入江観 × 土方明司


◆強まる結束と新しい風


土方 初期の春陽会の大きな出来事のひとつとして、1925年(大正14)に劉生と梅原龍三郎というスターが脱退します。我の強い劉生は会のなかでどうしても浮いてしまう。梅原は劉生を誘った手前、自分もやめることになります。でも草土社の作家であった、木村荘八と中川一政は春陽会に残りました。放菴は一政も一緒に脱退するのではないかと心配して「君まで出て行くのか。おれは山に入ってしまう」と言い、「その顔を見て、私は決心した。『放菴がいる間、僕は出ていかないよ』」と返したと後に一政が回想しています(中川一政「小杉放菴」『春陽会七〇年史』81頁)。逡巡していた時に放菴の言葉が一政の背中を大きく押したのでしょう。
 また、梅原まで脱退すると聞いた石井鶴三は、なんとか引き留めるために荘八、一政と相談して、夜分にもかかわらず放菴に相談に行っています。そこで最終的に引き留めることは不可能に近いとわかり、断念せざるをえなかった。ただ、のちに鶴三は「この時、殆ど偶然のようにはこんだ木村中川小杉と動いて行った縁が、その後だんだん深まり、相信じ三十年かわらぬ友情となった」と書いています(石井鶴三「交友」『春陽会七〇年史』80頁)。

入江 中川先生から、内部的にうまくいかないことがあって二人がやめてしまったとお聞きしたことがあります。中川先生は劉生からもう一度、一緒にやろうと言われたけれど断った、ご自分としては元に戻ることはしたくなかったとよく仰っていました。
土方 スターを失った春陽会をいかに守るか、梅原・劉生の脱退を通して会としては結束力が強まったようです。みんなの頑張りで春陽会は飛躍していきます。その後はフランスからの帰朝組が目立ってきます。もともと春陽会が発会した1922年(大正11)に在仏中の小山や硲、林が春陽会に客員として迎えられています。1927年(昭和2)には帰朝した林の作品を列べた部屋が特設され、翌々年の春陽会第7回展では鬼頭甕三郎、小林和作、小山敬三、硲伊之助、長谷川昇、林倭衛の滞欧作品が特別陳列されています。彼らは滞欧中から春陽会に出品し、会員待遇で迎えられたわけですが、入ってみるとやはり従来の価値観との違いが顕在化していき、1933年(昭和8)に小山、硲、翌年に青山、鬼頭、木下、小林、林らは退会します。もし彼らが残っていたら、春陽会の傾向もかなり変わっていたかもしれません。

入江 フランスアカデミズムを身につけてきた彼らには、たしかに春陽会が創立以来もっている泥臭いやり方はあまり合わなかったのでしょう。彼らが春陽会を出て新たに一水会を作ったということが、春陽会の会風を鮮明にしたと思っています。

土方 その後、第二次世界大戦の戦火が激しくなり帰国した岡が、同じく帰国して間もない高田力蔵とともに1940年(昭和15)に春陽会会員に迎えられ、三雲祥之助も3年後に会員となっています。彼らが春陽会に新たな刺激をもたらしたことは間違いありません。当時の春陽会の若手の主流は、鳥海のような土着的な油絵を目指していたように思います。ただ鳥海の作品について、たとえば戦前の美術雑誌では汚いがすさまじい迫力のあるといった評がなされていますが、春陽会の審査員はそれを悪いとはしない。木村荘八は鳥海の作品を見て「小生は特に彼を楽しみに考へてゐる」(木村荘八「春陽会入選画に就て」、『アトリヱ』4月号)と評するなど特に目をかけていたようです。鳥海もフランスからアルジェリアまで足をのばして長く滞欧生活をして戻ってきますが、その結果、日本の風土は油絵では描けない世界だったと記しています。でもそのことによって、油絵でしか描けない日本の風土があるのではないかと、信州の畠といったテーマに取り組むようになりました。

入江 放菴や恒友、萬もそうですが、彼らは自分の描く欲求に従って自由に日本画と洋画の世界を往き来していました。どうも鳥海さんの頃から油絵で日本的なものを描こうとなってきて、水墨などはあまり出てこなくなったような気がします。
土方 明治からの模倣と学習の時代、西洋の新しい技術としての油絵を取り入れる時代が終わって、大正末から昭和になるとそれまでに取り入れた技術で日本の何を描くかという段階に入ったのでしょう。しかし、岡・高田らの入会の一方で1942年(昭和17)に鳥海が退会したことも象徴的です。鳥海にしてみれば岡と肌合いも絵も合わない。でも兄貴分である荘八は岡も大事にしていた。それで臍を曲げた鳥海は、京都に蟄居してしまう。鳥海のご遺族が保管されていた荘八から鳥海へ宛てた手紙群には、引きこもってしまった鳥海をなんとか春陽会に引き留めようとする思いが綴られています。

入江 岡先生はそれまでの春陽会にはなかった主知主義という新しい風を導き入れ、春陽会はそれを受け入れたというのが面白いところだと思います。ただ主知主義とはいわれますが、そうではない部分というか、日本の風土にあった要素もあわせもちながらの主知主義だったから受け入れられたのだと思います。小杉先生が認めているのはとても大きかったでしょう。

土方 たしかに放菴と通底するところがありますね。
 僕が高校生の頃に岡さんが杖をついて家にいらしたことがありました。父に原稿を依頼されて、小一時間でお帰りになりましたが、母はああいう方がフランス仕込みの紳士というのよねと言っていたのを覚えています。

入江 岡先生にはご自宅にお招きいただいてレコードを聴かせていただいたりもしました。その時に、フランスから送られてきたフォアグラを切って出してくださって、たしかにごちそうにはちがいないけど、やっぱり独り者だなと思った記憶があります。時期によっては妹さんや、春陽会の笠木實さんがお世話をしていたこともありました。岡先生がフランス滞在中に《群落》のシリーズを描いていた部屋に行ったことがあります。斎藤豊作さんの奥様が所有するパリ南郊のソードルヴイルの城館の一室なのですが、実際に作られた現場に立ってみると、緊張感というか伝わってくるような気がして、やはり厳しい人だったなと思いました。岡先生のその頃の絵には苦悶の跡があります。


昭和16年の第19回展の招待日に集った会員。右より前年に会員として迎えられた岡鹿之助、横堀角次郎、前田藤四郎、国盛義篤、水谷清、若山為三、今関啓治、鳥海青児、高田力蔵、足立源一郎(手前)、栗田雄(奥)、加山四郎、小杉放菴、石井鶴三、倉田三郎、伊藤慶之助。
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