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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

春陽会の本質を形作るもの 3     入江観 × 土方明司


◆若手育成と会の近代化


土方 春陽会は若手育成にも力を入れていて、1929年(昭和4)には「春陽会洋画研究所」を開設し、熱心な指導が評判となります。

入江 研究所は春陽会にとってとても大事なもので、中谷泰さんを筆頭に多くの作家が育ちました。

木村荘八の発案で作られた春陽会研究所の成績優秀者を顕彰するパレット。


春陽会洋画研究所が編集を行った『洋画教本』。

土方
 開設にあたっては戦前のパトロン・鹿島龍蔵による応援があったようですね。夜間講習や土曜講演会、夏期洋画講習会など、まるで今の美術予備校のようです。在京の会員が講師として指導にあたり、三岸好太郎も教えていたそうです。それが財政難で1937年(昭和12)に閉鎖を余儀なくされますが、その後、戦中の1943年(昭和18)に、あらためて研究機関としての「春陽会教場」が開講され、上野韻松亭などの貸席での授業ののちに御茶ノ水のニコライ堂を借りて続けられています。その中心となったのが教場長の中川一政でした。当時の講義の内容は、技術面だけではなく、一政による大燈国師、不易流行、太刀の道であったり、岡はマチエールの研究、三雲は構図といった幅広い内容で、道場での批評は通称「爆撃」といわれるほど激しく、非常に緊張感のある授業だったのですね。

入江 実際に空襲警報のなかでやったこともあるくらいですから。

土方 それだけ精神的な緊張感を持った講義で、道場に近い性質をもっていたのでしょう。戦中にそんなことをやっている団体は春陽会以外にはない。それをやろうとした中川や小杉の思いはそうとう強かったはずです。

入江 中川先生は1927年(昭和2)に田端の放菴の自宅で漢学者の公田連太郎を講師に迎えた勉強会「老荘会」を行っていました。中川先生の中国文化に対する教養の高さはそこで得られたのでしょう。
 小杉先生や中川先生、岡先生のほかにも春陽会を影で支えてきた作家たちも大切な存在です。たとえば倉田三郎先生はどちらかといえば作風も派手ではないですが、公平な人柄で、中川先生にも率直に意見を言うところがありました。だから人望があって、創立会員とその後の人をつなぐ役割も果たしていて、公募団体としてのバランスをとるのになくてはならない人でした。ほかにも自然と非常に誠実に向き合った遠藤典太や志村一男とか、スターがいると同時に春陽会の地盤を作ってきた作家たちがいました。

土方 戦後になって春陽会は運営体制そのものの近代化が火急の問題となります。それまでは鹿島組の鹿島龍蔵というパトロンがいて、なかばどんぶり勘定で進んでいくところがありました。でも組織が大きくなると、どうしてもそうはいかなくなります。

入江 それに手をつけたのが木村先生から引き継いだ第4期水谷清事務所(1949〜56)、第5期南大路一事務所(1956〜58)、そして第6期中谷泰事務所(1958〜61)です。僕が初出品したのは中谷さんが事務所の頃だと思います。

土方 1958年(昭和33)にはきちんとした春陽会々則が定められ、会費を集める体制が作られました。また事務所の改革と並行するように、岡や三雲、加山、中谷、南大路らを中心に、会の外部から若手作家を積極的に勧誘する動きがありますね。

入江 それによってJANのメンバーが春陽会に加わることになりました。一番古いのは田中岑さんで、次に藤井令太郎さん、そして五味秀夫さんです。中山爾郎さんもその一人です。僕は正直いうと、田中、五味、藤井に憧れて春陽会に出品したところもあります。
 岑さんの話だと、その頃、普通は審査で公平に賞を出して会員にしていくんだけど、岑さんが旗をふって、主立った会員が五味さんの絵を見に行って、幹部候補生のような扱いで春陽会に引っ張ったそうです。

土方 若手で才能のある作家を一本釣りして、会の起爆剤にした。田中岑さんで話題になるのが、最初、勧誘された時には断った。でも出品料の500円が送られてきたから出したら、研究賞を受賞したけれど、その賞金は出品料と相殺になったという。

入江 岑さんは研究賞だったのがずっと不満だったようで、何かあるとそれを話題にしてました。ただ岑さんは1956年(昭和31)の第1回安井賞を受賞したものだから、やや会内で浮き気味になってしまって、それで斜めに構えるようなスタンスがありました。
 JANのほかにも鎌倉の近代美術館に収蔵された田畔司朗さんや、それから宮城音蔵さんなど、非常に勢いのある時代でした。

土方 文人的なイメージの春陽会から、戦後はまた違う雰囲気になっていますね。

入江 やはりJANが入ってきたことで、新しいエスプリが春陽会にもたらされたのだと思います。

土方 それから1950年代の近代化のなかで、戦時下の教場以来、都立工芸高校や俳優座アトリエなどで行われていた研究所の会場が、1953年(昭和28)に市ヶ谷の常設建物を会場に定め「春陽会美術研究所」が発足しています。本格的な学校のような存在で、たくさんの人が集まったそうですね。
 ただ人気が出すぎて予備校のようになってしまい、岡さんがやはり研究機関でなくてはだめだと、3年後にあらためて作家の養成機関として「春陽会研究会」が作られました。初代の主任が岡先生で、非常に厳しいプロに向けたものに方向転換したと聞いています。その授業は戦前と変わらず、技術だけではなく精神的な部分をおさえたものだったようですね。

入江 春陽会に出す気があるなら研究会に入ったほうがいいと薦められて、僕も初入選してすぐに研究会に参加するようになりました。月に一回の研究会には、絵をもっていかないと出席できません。僕は学校があったからなかなか時間がなくて、やっつけの仕事を持っていくわけです。そういう時に先生方の前に絵を並べると、岡先生から今日は持ってお帰りなさいと言われて……。恥ずかしくて即座に片付けて帰ってきたことがあります。本当に厳しいなと実感しました。でも岡先生のすごいところは、少しでもよくなったところを見逃さないのです。そういう時にはすぐに声をかけてくださって、もう天にも昇るような気持ちになりました。そういうのでおだてられて絵描きになったようなところがあります。


春陽会研究会の様子。
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