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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

春陽会の版画 その諸相と系譜 1        滝沢 恭司


◆はじめに 「版画室」新設とその背景


 春陽会は1922年(大正11)に結成され、翌年第1回展を開催して以来、現在まで100年にわたって活動が継続している美術団体である。油彩による肉筆画の出品を中心とした歴史のなかで、版画の出品は1924年(大正13)開催の第2回展に河野通勢(1895-1950)のエッチング4点と、高見澤遠治(1890-1927)彫版による木村荘八(1893-1953)の木版画1点が出品されたことに始まっている。その2年後、「素描室」が恒常的に設置された1926年(大正15)の第4回展には、通勢の義理の弟で、荘八に絵を学んでいた野村俊彦(1904-1987)[註01]が木版画を出品、次いで「挿絵室」が新設された1927年(昭和2)の第5回展には、野村のほかに、永瀬義郎(1891-1978)に学んで版画制作を始めていた清水孝一(1895-1936?)[註02]や、大正初期に竹久夢二(1884-1934)への傾倒から版画制作を始め、東京美術学校で日本画を学んだ古川龍生(1893-1968)[註03]が出品している。そして翌1928年(昭和3)の第6回展において、春陽会は「版画室」を新設して会における版画のステータスを明確化した。また、渡仏中であった春陽会創立メンバーの長谷川昇(1886-1973)が、パリで活動する版画家の長谷川潔(1891-1980)に直接入会を勧め、会期中に長谷川は会員となった。この決定は、春陽会における版画のステータスをより強固なものにしたといえる。


第2回展目録に記載された河野通勢の出品作の中にエッチングが見られる。

 ちなみに、平塚運一(1895-1997)や川上澄生(1895-1972)らの版画家が出品を続けてきた国画創作協会[註04]もまた、1928年に版画室を新設している。
 こうした昭和初期における春陽会と国画創作協会の版画室新設は、明治30年代後半に始まった創作版画をめぐるムーヴメントの象徴的な出来事として位置づけることができる。その高揚と強化を示す最も重要な出来事は、1918年(大正7)に織田一磨(1882-1956)、山本鼎(1882-1946)、戸張孤雁(1882-1927)ら5人の創作版画家が発起人となって「日本創作版画協会」が結成され、翌1919年(大正8)に第1回展が開催されたことである。その際協会は銅版画、石版画、木版画の技法書を発行すること、東京美術学校に銅版画、石版画、木版画を教える版画科を設置すること、そして官展に版画の出品を受理させることという3つの課題を決議した。それ以後創作版画はこの版画団体の展覧会を中心に、春陽会や国画創作協会の展覧会への出品、版画家による個展や頒布会の開催、版画誌の刊行、技法書の発行、『みづゑ』など美術雑誌での特集や雑誌・新聞の展覧会評などを通じて[註05]急速に普及し、その表現の特性や意義などが認知されていった。そして1927年には、ついに帝国美術院の美術展覧会規程の一部が改正され、第2部「絵画(油絵、水彩画、パステル画等)」に「創作版画」が追加されたことで、官展に版画出品を受理させるという大きな課題が解決された。春陽会と国画創作協会の版画室新設は、この官展への版画出品受理を直接的に受けとった出来事であった。
 版画関連のこうした動向を背景に、そもそも春陽会には版画出品を受け入れる環境が整っていたといえる。創作版画の嚆矢となる《漁夫》(『明星』1904年7月)を発表し、その後版画誌『方寸』(1907年5月〜1911年7月、全35冊)を創刊、さらに日本創作版画協会の立ち上げに参画した山本鼎をはじめ、『方寸』同人であった森田恒友(1881-1933)、小杉未醒(放菴、1881-1964)、倉田白羊(1881-1938)らが創立会員であったし、最初の創作版画誌となる『平旦』(1905〜1906年、全5冊)の同人だった石井鶴三(1887-1973)のほか、明治末から大正期にかけて創作版画を制作していた萬鐵五郎(1885-1927)や岸田劉生(1891-1929)が創立時の客員であったからだ。こうした顔ぶれを思い浮かべるだけでも、春陽会は結成当初から版画の出品を歓迎する機運に満ちていたことがうかがえる。


『方寸』第1巻第5号の表紙に使用された山本鼎の作品。

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