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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

春陽会の版画 その諸相と系譜 6        滝沢 恭司


◆おわりに


 この後の時代も、特に詩情があるあるいは幻想を誘う銅版画にひとつのタイプが示される春陽会の版画の系譜は、1981年(昭和56)に新人賞を受賞、1989年(平成元年)に会員に推挙された久保卓治(1948-2021)、1981年に研究賞を受賞した渡辺栄一(1947年生まれ)、1983(昭和58)年に新人賞を受賞、1986年(昭和61)に準会員となった筆塚稔尚(1957年生まれ)、1984年(昭和59)に研究賞を受賞した胡子修司(1957年生まれ)、1988(昭和63)に準会員に推挙された艾澤詳子(1949年生まれ)などの銅版画の出品とその内容に辿ることができるように思われる。
 しかしこうした版画家もすでに春陽会から離れているケースが多く、今現在の筆者には、さらに若い春陽会会員らの作品によってこれまでのタイプの継承があるのか、まだあるとしたらそれが主流であるのか、あるいは審査によってその発展的タイプがつくられているのか、それとももうタイプなどというものはなくなっているのか、それを見極めることはできそうもない。そのような見極めは、もう少し先の時代の歴史的検証作業に委ねることがよいと思われる。
 また、ひとつの美術団体だからこそ何らかのタイプがあった方が、団体の個性が打ち出され、その主張や意義を問うことが容易になるとは思うが、タイプと呼べるものは現代の新しい美術表現との関係のなかでどのように位置づけられるかという見方によってつくられることが大切ではないかと思われる。春陽会の版画がさらに輝き、今以上に多くの人に興味を持たれるためには、目指す方向の再検討もしくは再確認と、目的達成のための戦略が必要となるのではないかと思う。

(たきざわ・きょうじ/町田市立国際版画美術館学芸員)

◆註

01|岩切信一郎「近代日本版画家名覧 野村俊彦」『版画堂』117、2017年9月、75頁
02|三木哲夫「近代日本版画家名覧 清水孝一」『版画堂』110、2015年12月、67-68頁
03|西山純子「近代日本版画家名覧 古川龍生」『版画堂』120、2018年6月、96-97頁
04|国画創作協会は1928年(昭和3)第7回展開催の際に第一部(日本画)のなかに版画室を新設した。しかし7月に協会第一部(日本画)が解散。第二部は一旦解散したが、梅原龍三郎を中心に「国画会」として活動を継続する。その後11月に第一部の旧同人らが「新樹社」を結成し、版画出品者も参加した。翌1929年(昭和4)には、国画創作協会の第二部の回数を継承し、国画会第4回展が開催され、6名の版画家が出品した。同年の新樹社第1回展にも一部同じ版画家が出品している。1930年(昭和5)2月に絵画部の中に版画部が新設、翌1931年(昭和6)に、絵画部から独立した。
05|三木哲夫編「日本創作版画協会史 1918-1930」『日本版画協会史 1931-2012』(日本版画協会、2012年10月)を参照。
06|出品目録はAからのアルファベット順に出品者、作品名、売価などが記載されているため正確な版画の出品者と作品は不明だが、山本鼎による『読売新聞』掲載の「文藝月曜附録」(1928年5月7日)に、その時版画室に54点の版画が出品されたと記載されている。
07|1931年(昭和6)2月に、従来の無鑑査出品者を「会友」と改称した。
08|『日本美術年鑑 昭和十一年版』美術研究所、1936年10月、116頁
09|『春陽会七〇年史』社団法人春陽会、1994年7月、163-164頁
10|『日本美術年鑑 昭和十一年版』同註08、123頁
11|『春陽会七〇年史』同註09、240-242頁
12|『春陽会七〇年史』同註09、298頁(『第4回美術団体連合展図録』1950年6月の再録)
13|「1950年読売ベスト・スリー」『読売新聞』1950年12月25日
14|北岡文雄の回想(平成5年4月19日談)『春陽会七〇年史』同註09、299頁


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