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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

春陽会の版画 その諸相と系譜 4        滝沢 恭司


◆北岡文雄と駒井哲郎の登場、そして版画部独立へ


 戦後、春陽会は1946年(昭和21)に一般公募なしで第23回展を開催し、展覧会活動を再開させた。版画については、会員の前田藤四郎が最初から出品し、1948年(昭和23)の第25回展になると、1944年から出品を休止していた山林文子と、戦時中の春陽会展に油彩画を出品していた北岡文雄(1918-2007)が出品を始めている。
 そして、その2年後の1950年(昭和25)の第27回展の時に、東京美術学校油画科の2年先輩である北岡の熱心な勧めで駒井哲郎(1920-1976)が《白い黒ン坊》《夢の『A』》《夢の扉》《R夫人の肖像》《孤独な鳥》《夢の推移》《K病院の看護婦》《夢の場と閃光現象》《ジル・ド・レの像》の9点の銅版画を出品し、初出品で春陽会賞を受賞、春陽会の版画は新しい時代の幕開けを迎えることとなった。ちなみにこの時の駒井の作品は、岡鹿之助(1898-1978)によって「匂うようなデリカシイと知性。フランスの現代音楽を聴くような清新なアトモスフエアに私は喜びを覚えた、痩せた国土からこのような匂い豊かな作品が生れることは稀であろう」[註12]と激賞されている。また瀧口修造が《白い黒ン坊》を「1950年読売ベスト・スリー」[註13]の1点に選出してもいる。
 このようなかたちで登場した駒井は、1951年の春陽会第28回展にも《束の間の幻影》《夜の魚(夢の連作のうち)》《人形と小動物》ほか全12点の銅版画を出品し、《郊外風景》や《冬の窓辺》など6点の木版画を出品した北岡とともに会員に推挙された。またこの年駒井は、日本の美術界が戦後初めて参加した第1回サンパウロ・ビエンナーレに《束の間の幻影》を出品し、絵画や彫刻を抑えて在聖日本人賞を受賞し、その名を日本の美術界にとどろかせてもいる。一方この年の春陽会展には、フランスを拠点に活動する長谷川潔が9点の銅版画を出品し、戦後初めての参加を見せた。また、敗血症を患って1936年から療養生活をおくり、制作活動をほぼ中止していた古川龍生がこの年に4点の木版画を出品し、春陽会への復活を果たした。
 北岡文雄に続くこうした駒井哲郎という新人版画家の登場や現代日本版画の国際的評価、長谷川の出品や古川龍生の復帰などを受け止めるようにして、また石井鶴三、岡鹿之助、三雲祥之助(1902-1982)らの支持に促されもして、春陽会は翌1952年(昭和27)の第29回展開催にあたって版画部が独立することを認めた。以後版画部会員による独自審査が始まり、しばらくの間は前田、北岡、駒井の3人がこれにあたった。その際3人は、棟方志功に代表される日本的、民芸趣味的イメージがある国画会版画部に対抗するように、長谷川潔や駒井哲郎のモダンで洗練された、きめの細かい表現が春陽会版画部のイメージとなるよう審査の方向性を決めたという[註14]。また古川龍生がこの年準会員となり、1954年(昭和29)には会員に推挙されたことで春陽会の版画部会員は長谷川、前田、北岡、駒井、古川の5人となり、木版による素朴ないしは即物的な表現の創作版画の系譜に、深い思想や心象を表現した繊細で清新な銅版画が相和す、春陽会独自の版画のタイプ(型)が出来上がっていった。
 なお、版画部独立時の春陽会第29回展には、長谷川潔の斡旋によって、現代フランスの銅版画家10名全36作品が特別出品され、日本ではまだなじみの薄い銅版画の魅力が伝えられた。この展示のほかにも、1950年には東京国立博物館の表慶館で「現代フランス創作版画展」が開催され、1951年の「サロン・ド・メ展」にも現代フランスの銅版画が出品された。これらの特別展示や展覧会によって、日本での銅版画の理解が進み、制作や鑑賞への興味が高まっていく。


版画部が独自審査を開始した翌年(1953)の第30回展記念撮影。後方2列目の中央に前田藤四郎、後列左より3人目が北岡文雄、後列左端が駒井哲郎。


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