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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

春陽会の版画 その諸相と系譜 2        滝沢 恭司


◆版画室新設から1935年までの版画出品


 版画室が新設された春陽会第6回展には、54点の版画が展示されたとされる[註06]。出品目録から版画室に展示された作品を特定することはできないが、旭正秀(泰宏、1900-1956)、畦地梅太郎(1902-1999)、内田静馬(1906-2000)、清水孝一、野村俊彦、平川清蔵(1896-1964)、深澤索一(1896-1947)、藤森静雄(1891-1943)、古川龍生、逸見亨(1895-1944)、棟方志功(1903-1975)、山口進(1897-1983)ら東京をベースに活動する版画家のほか、北村今三(1900-1946)や菅藤霞仙(1889-1955)、春村ただを(1901-1977)ら、翌1929年(昭和4)に神戸で版画グループ「三紅会」を結成するメンバーの名が記載され、創作版画の作家の出品が飛躍的に拡充したことがわかる。畦地や棟方などはやがて国画会の版画家となっていったが、版画室新設を機に、その後春陽会出品の創作版画家たちの数は、1935年(昭和10)までは10数人程度とほぼ同じレヴェル感で推移する。


版画室が新設された第6回展(1928年)の会場の様子。

 毎回出品した版画家は少ないものの、その間の常連といえる出品者は旭正秀、徳力富吉郎(1902-2000)、野村俊彦、深澤索一、藤森静雄、古川龍生、逸見亨、前川千帆(1888-1960)、前田藤四郎(1904-1990)、山口進などであった。このなかで千帆は、春陽会への初出品こそ1929年の第7回展であったが、それまでの版画家そして漫画家としての活動や作品が評価されてか、1930年に無鑑査推挙[註07]となった春陽会初期の主要な版画家のひとりであったといえる。古川龍生もまた、1927年に初出品して以来、洒脱な線と繊細な色彩による木版画を1936年(昭和11)まで出品し続けた主要な版画家のひとりで、その間の1933年(昭和8)の第11回展には、擬人化した昆虫たちの世界を詩情豊かに描いた《昆虫戯画巻》(「平和篇」「争闘篇」「新生篇」各3点と目次1点の計10点から成る)を発表して、木版画表現の可能性を押し広げた。その後この作品は龍生の代表作となっている。また、前田藤四郎は1929年(昭和4)から春陽会に出品し始めた版画家で、松坂屋の宣伝部を経て青雲社という印刷所に勤務する商業美術家としての感覚を反映させ、消費文化をテーマにデパートのショーウインドーやマネキン、女性の服飾品などを再構成した、あるいは流行を伝える最新の雑誌や医学書掲載のイメージをコラージュしたモダンな作風のリノカット版画を出品し、春陽会でも特異な存在感を示した。反対に深澤索一などは、草土の自然や果実、器などの静物が実在することの神秘を描き出した岸田劉生の静物画や風景画に刺激を受けたことが認められる、草土社から初期春陽会の油彩画を思わせる版画を出品している。
 常連出品者以外にも注目すべき版画家がいる。そのひとりはもちろん、1928年に会員に推挙された長谷川潔である。初出品となる1930年の第8回展の際に特別扱いを受け、14点の版画が放菴、鶴三、恒友という春陽会創立時のメンバーの作品と同じ室(第11室)に陳列されたことは、長谷川への敬意の表明と見なせよう。その時の作品は、タイトルから推定すると1925年頃から30年初めにかけて制作されたドライポイント、エングレーヴィング、マニエール・ノワール(メゾチント)による白黒の銅版画群で、春陽会の全出品作品のなかでも異彩を放っていたことが想像できる。この後長谷川は、戦前には1931年の第9回展に6点、1932年の第10回展に同じく6点、1939年(昭和14)の第17回展に挿絵本『竹取物語』の挿絵とほかの版画、1942年(昭和17)の第20回展に2点の版画を出品し、断続的ながらその存在感を示すとともに、戦前の日本にはまだなじみが薄い銅版画表現の可能性を伝えた。このほかに特筆できる版画家は、長谷川とともに大正期の文芸美術の同人雑誌『仮面』(1912年12月『聖盃』として創刊、8号から『仮面』に改称、1915年6月までに29冊刊行)の画家として活動し、その後長谷川とともに日本最初の版画グループ「日本版画倶楽部」を結成した永瀬義郎である。第1回展(1923年)から版画室新設の第6回展(1928年)までの出品作品は(第3回展は未出品)、目録記載の作品売価から油彩画であった可能性があるが、第7回展(1929年)には《トルコ帽をかぶれる男》と《ある日の草人》の2点の木版画などを出品して春陽会賞を受賞、翌1930年の第8回展の際に千帆とともに無鑑査に推挙された。しかし永瀬は、1929年の春陽会展終了直後にフランス遊学のため日本を去り、以後1936年に帰国した後も春陽会に出品することはなかった。


長谷川潔がパリ委員として事務の面倒を見る事になったことが記された手紙。

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