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美術団体春陽会が所蔵する歴史的資料のアーカイブ

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春陽会に寄せてESSAY

春陽会の版画 その諸相と系譜 3        滝沢 恭司


◆帝展改組と版画出品への影響


 目録から断定することはできないものの、版画室新設で急増した春陽会への版画家の出品者数は、1935年の第13回展では、逸見亨を除く先の常連に亀井藤兵衛(1901-1977)、北澤収治(1890-1960)、武田由平(1892-1989)らを加えた13名であった。それが翌1936年の第14回展になると、版画出品者は野村俊彦、藤森静雄、古川龍生、前田藤四郎の4人に激減してしまう。その後版画出品者は1937(昭和12)年の第15回展から1940年(昭和15)の第18回展までが常時3名程度、1941年(昭和16)の第19回展に5名程度と低調に推移し、1935年までの盛り上がりは失われたままだった。つづく1942年(昭和17)の第20回展に11名程度、1943年(昭和18)の第21回展に7名程度、1944年(昭和19)の第22回展に6名程度の版画家の出品があり、戦時下においてその数は若干回復する。
 一方、1930年に平塚運一が会員に推挙されたことで翌1931年に版画部を新設した国画会への版画出品者は、1935年の第10回展が26名、翌1936年の第11回展が29名、1937年の第12回展が38名、1938年の第13回展が21名、1939年の第14回展が29名、1940年の第15回展が26名、1941年の第16回展が23名、1942年の第17回展が34名、1943年の第18回展が37名、1944年の第19回展が32名と推移し、春陽会と比べると多くの版画家の出品があり、盛況ぶりがうかがえる。この間、すでに会員に推挙されていた平塚と川西英(1894-1965、1934年に会員推挙)に加え、第10回展で棟方志功が会友に、第11回展で恩地孝四郎(1891-1955)が版画部会員に、第12回展で日本に住むロシア人画家のワルワーラ・ブブノワ(1886-1983)が版画部同人に、第17回展で川上澄生が同人に、第18回展で畦地梅太郎、前田政雄(1904-1974)、下澤木鉢郎(1901-1986)が版画部会友にそれぞれ推挙され、国画会版画部の体裁と性格は整った。
 では、なぜ1936年の第14回展以降、春陽会へ出品する版画家の数が減少したのか。その原因は、1935年の春陽会第13回展終了後の5月28日に発表された、文部大臣松田源治による「帝国美術院改組」に原因があったと考えてよい。周知のように帝展改組は官設である帝国美術院に在野の美術団体を統合し、政府によって文化を一元的に管理統制することを目的として実施されたものだった。帝展改組発表とともに、春陽会からは小杉放菴が帝国美術院会員に任命されたが、その後春陽会は、同年6月に「現下の官野ともにただ卑近な展覧会開催といふ点だけを廻つて紛乱する情勢には交ることを好まない」[註08]とする第一次声明書を発し、9月に「帝国美術院展覧会は国家的施設なれば綜合展覧会を目的とすべき」とする内容の「帝展第二部開催に対する試案」[註09]を提出した。そして12月には「再度建議案を提出」したが、「今回の発表を見ると本会の理想と反する事になり本会の参加は考へられません、春陽会は依然、純粋の在野団体として行動します、しかし会内に帝展に参加するものがあればこれに対して各自の自由にまかせます、但しそ際は一方に態度を決して貰ひます」[註10]とする第二次声明書を発信して、態度を厳格化した。その直後に、改組の内容に反対を表明したこの第二次声明書を受けるかたちで放菴が帝国美術院会員を辞任、一方で、11月29日開催の新帝国美術院第2回総会で「参与」に選定されていた長谷川昇、山本鼎、「指定」に選定されていた足立源一郎(1889-1973)、石井鶴三、木村荘八、倉田白羊、中川一政(1893-1991)のうち、山本鼎は参与を受諾し、春陽会を退会した。また年内に、山本に続くかたちで会員の山崎省三(1896-1945)と会友の前川千帆が退会、翌年には長谷川昇、岡本一平(1886-1948)、会友の一木ク(1898-1973)も退会した。
 このような春陽会に対して、国画会は梅原龍三郎(1888-1986)と富本憲吉(1886-1963)が帝国美術院会員に任命され、この二人から経過説明を受けて会の態度について協議、その結果、帝国美術院改組に賛意を表するとの声明書を発表した。その後1936年に平生釟三郎文相から提示された再改組に対して反発し、梅原と富本は帝国美術院会員を辞任、国画会も不参加を表明するが、翌1937年に帝国美術院が廃止されて帝国芸術院が設立されると先の二人は会員となり、新文展が開催される段になって国画会も参加を表明した。
 帝展改組をめぐるこのような紛糾を背景に、春陽会に版画を出品していた版画家の多くは、千帆の決断に準じるようにして春陽会を離れたと思われる。日本創作版画協会創立時に決議した、官展に版画出品を受理させるという目標が達成されてからまだ10年にも満たない時期の事件であり、1934年までの帝展には亀井藤兵衛、小泉癸巳男(1893-1945)、琴塚英一(1906-1982)、清水孝一、徳力富吉郎、永瀬義郎、野村俊彦、平川清蔵、藤森静雄、前川千帆といった春陽会の版画家も出品していた。官展への入選、出品は版画家個人の名声や自信の高まりに加えて、版画自体のステータスの向上に大きく貢献できることを意味していた時代でもあった。こうした時期および時代ゆえに、官展出品を断念することができなかった版画家は多かったと想像できる。その例は、1936年の文展監査展に亀井藤兵衛、琴塚英一、武田由平が入選・出品し、文展招待展に前川千帆が出品したこと、その後の新文展に前川千帆や永瀬義郎をはじめ、旭正秀、武田由平、琴塚英一、徳力富吉郎らかつての春陽会出品者が出品していることにもうかがえる。
 しかしこの後、松田文相急逝後、平生文相によって再改組が企てられて新文展として開催され、1938年の第2回新文展の際に春陽会から木村荘八と中川一政が審査員に加わるようになると、翌1939年以降、野崎新右衛門(1911-没年不詳)や前田藤四郎、旭正秀(泰宏)らが新文展に出品するようになった。こうした動きを受け、1942年になると、逆に春陽会には旭正秀や深澤索一、1935年の春陽会第13回展に初出品した後1938年の第2回新文展に出品した山林文子(1910-没年不詳)など、かつての春陽会の版画家が戻り、この団体出品の版画家の数も少し増えた。なお、国画会の版画出品者の数がそれまでと変わらず、むしろ増える傾向にあったのは、先述の通り、会が帝国美術院改組に賛意を表する声明書を発表したことと、新文展への参加を表明したことによると考えられる。
 さて、版画出品者が少なかったとはいえ、春陽会における版画のステータスは保持されていたと考えられる。その理由は、前田藤四郎が気を吐き、雑誌や単行本から選び取ったイメージをコラージュし、印刷と版画を組み合わせた、あるいは1939年と1940年の2度にわたる沖縄取材旅行にもとづく伝統とモダンを融合した印象深い版画を1936年以降も毎年春陽会展に出品したからである。そうした版画への評価は、前田が1939年の第17回展で春陽会賞を受賞して会友に、翌1940年に会員に推挙されたことに明らかだ。また大阪在住の前田は、会員になってまもない頃に春陽会の関西支部事務所を引き受け、関西の春陽会の屋台骨を支え、東京の画家との交流も深めた[註11]。この時期の前田は、春陽会になくてはならない版画家だった。

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